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コロナウイルス連作短編その220「Bucharest Decadence」

 梅時マダリナは“Tokyo Decandence”という本を読んでいる.表紙には猫耳のついた仮面に,黒いニップレスが描かれており,なかなかに煽情的だ.
 これはRyū Murakamiという日本人作家が書いた短編集で,今年ルーマニア語に翻訳されたばかりだった.母親であるシミナが話題にしたのを機にその存在を知り,日本からブカレストに帰ってきた後,気まぐれにその本を手に取ったんだった.
 Ryū Murakami,名前だけは聞いたことがあった.Haruki Murakamiが女性憎悪的なスノッブなら,Ryū Murakamiはさらに女性憎悪的かつ暴力的,そして露悪的な酔っぱらい.友人からはそんな評を聞いたことがあった.
 “徹底的に時代と寝た男”という言葉も聞いたことがある.つまり時代時代に合わせて売れる,売れに売れまくる小説を書いていたという意味だ.
 日本の小説家なら村田沙耶香,松田青子,王谷晶,石田夏穂……そんな優れた若い作家たちが数多くいる.村上龍など読む必要はない.
 だのに今,この卑猥な表紙をした“Tokyo Decadence”を手にとってしまっている.
 友人には誇れないだろう.しかし今回は日本とルーマニアの血を引き継ぐ人間が,日本文学をルーマニア語で読むことのギルティプレジャーが勝った.
 まず最初“De cîte ori stau la bar și beau, îmi dau seama ce sacră e meseria de barman”という話を読んでみる.だが冒頭から,気取った人間たちが高級そうな酒を飲む様にゲップが出そうになる.ここには“ラグジュアリーな”という軽薄な横文字が似合うとしか思えない.
 だがすぐに,別種の違和感を抱いた.“lângă そばに”という言葉が“lîngă”と書かれている.“zâmbet 笑顔”も“zîmbet”と書かれていた.
 この書き方は確か……共産政権崩壊前の正書法だ.自分が生まれる大分前にこそ使われていた書き方だった.今50代の母ですらこんな風には書かない.
 物語の雰囲気自体は夜めき,退廃的で淫靡であるのに,何故だか数十年の歴史がある老舗新聞Dilema vecheの記事を読んでいる気分になる.鼻で笑えた.
 そして読み進めていくのなら,作品の語り手がドキュメンタリー作家だと分かる.半年の間,世界各地にあるゲットーを取材していたらしい.コルカタ,マニラ,リオ・デ・ジャネイロ,モンテビデオ,ボゴタ……その中にブカレストはなかった.
 マダリナはそれにガッカリした.東京にいる間,彼女は弟のクリスティアンや日本人の友人たちに,ブカレストがいかに醜いかを語っていた.“東欧のパリ”という渾名はもはや悪質な詐欺だ.町はゴミで溢れかえり,大量の落書きが芸術的な腐臭を撒き散らしている.だが何よりも数え切れないほどの車が凸凹の道の上にゴキブリさながら蔓延り,排気ガスに息もできないくらいだ.
 そんな街の名前がリストに載ってないなんて,ガッカリだった.
 同時にそれに安心もしていた.ブカレストにいる間,彼女はルーマニアの友人たちに,東京がいかに醜いかを語っていた.資本主義によって開発され尽くした挙げ句,ペニスの群れのような高層ビル群が立ちならび,その麓では圧縮された道や家,人が犇めき,満ちる空気は完全に淀んでいる.そして夜にはそれらが悪趣味なまでの極彩色で輝くわけだ.“統合失調症的な”という言葉がこれほど似合う支離滅裂な街をマダリナは知らなかった.
 それに比べればブカレストは若々しく猥雑な生気に満ちあふれている.未完成で未成熟の,若者の文化がここで胎動しているのを確かに感じるのだ.ここから例えばラドゥ・ジューデといった才能ある映画監督たちが現れることに納得せざるを得ない.
 そんな街の名前がリストに載っていないことに,安心した.
 この感覚が全く同時に現れたので,マダリナは戸惑ってしまう.
 東京,東京.
 ほんの小さな頃はブカレストで育ちながら,実際は多くの時間を東京で過ごしていたと友人たちに語ると“スゴイ!”と口々に言うが,そのたびに彼女はこんな日本語を言う,“ゴミゴミしている”と.意味は“まとまりがなく,雑然としている”というものだが,この言葉をよくよく見るなら“ゴミ”という言葉が2つ重ねられている.
 これを説明するなら“ゴミ”が“ゴミゴミしている”のはむしろブカレストで,東京はむしろゴミ1つない清潔な空間が広がってるではないかと反論される.だがそこは問題ではない.その清潔な風景の裏側にある精神性,そこに吐き気を催すのだ.
 そしてそんな精神性が,このRyū Murakamiとやらが書く文章のなかには宿っていると,マダリナには何故だかそう思えたんだった.
 ふと思い至り,この短編がいつ書かれたのかを確認する.1986年だ.
 ブカレストは,ルーマニアはまだ共産政権がしぶとく生き残っていた時期だ.母がその忌まわしい時代について話してくれたことはほとんどない.
 だが子供の頃,ふと夜中に目覚め,自分を寝かしつけてくれた母が眠りのなかで,何か言っているのを聞いた.
 Mi-e foame, mi-e foame...
 お腹すいた,お腹すいた……
 そんな言葉を,いつもよりも少し高い声で,何度も何度も,執拗なまでに呟きつづけていた.その時の母は禍々しいまでに小さく見えた.怖くなって泣き始めると,しかし彼女はすぐに目覚めて自分をあやしてくれたんだった.
 あの時に見たのは,子供の頃の母親だったのだろうか?
 母はルーマニア語を愛している.自分や弟ともよくルーマニア語で話すし,Facebookを通じて古い友人とよくルーマニア語で会話している.
 母はルーマニア文化を愛している.東京にあるルーマニア料理店にもよく遊びに行くし,ルーマニア映画が公開されるなら毎回劇場へそれを観に行くほどだ.
 だがルーマニアという国を愛しているのか? それは分からない.
 一旦,本を閉じて表紙を眺めてみる.
 “Bucharest Decadence”という言葉が,ふと思い浮かんだ.
 ブカレスト,ブカレスト.
 脂の匂いに満ちた夜.
 酒瓶を片付ける少年少女.
 脳髄を締めつけるような二日酔い.
 未だにそんな皮相的なイメージしか思いつかない.
 友人たちは自分を夜のブカレストへと,確かに誘ってくれる.だが未だにその闇の奥へは辿り着けていない気がしている.彼らは巧みに,自分の目からその入口を隠しているように思えるのだ.
 自分はまだ彼らにとって,ブカレストにとって“外人”なのだ.この日本語は,ルーマニア語でどう言うのだろう.“外国人”なら,容易く“străină”だと即答できる.だが“外人”は? おそらくそれを意味するスラングは存在するはずだ.
 しかし友人たちにそれを聞けたことがない.
 何気なく,視線をあげる.ドアが目に入る.茶色く,薄汚れたドアだ.
 その向こうはどこなのだろうか,そんな疑問が頭に浮かんだ.
 東京か,ブカレストか.
 いや,ここはブカレストだ.Ryū Murakamiの本を買ったブカレストだ.
 それは背後にある窓を通じて,その風景を見ても分かる.
 だのに,脳髄がその現実を理解しようとしない.脳髄がマダリナの心を曖昧な霧のなかに宙吊りにしようとしている.そのドアの向こうにブカレストが広がっているようにも,東京が広がっているようにも思えるのだ.
 その心地はまるで,シュレーディンガーの猫の世界に放りこまれた科学者のようだった.
 箱を開ける時,猫は死んでいるかもしれない.
 箱を開ける時,猫は生きているかもしれない.
 だけどもしそうなら,ブカレストはどっちの猫なの?

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