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コロナウイルス連作短編その219「誰なんだよ」

「ご飯できたよ!」
 王木美鈴がそう言ってから、娘の王木めぐが自身の部屋から出てきたのは十数分後のことだった。
 それは勿論、彼女がいつものように“昼寝”をしていたからだ。だが実際、午後6時7時まで眠っている睡眠を“昼寝”と呼称するべきなのか、美鈴には疑問だった。“夕寝”という新たな言葉を作るべきかもしれない。もしくはただ“睡眠”と呼ぶべきか。
「ご飯もう冷えちゃいましたけど」
 これくらいの皮肉を言うくらいは、許されるはずだ。
 未だぼうと呆けた表情をしながら、席に座り食卓を見つめるめぐを見ながら、美鈴はそう思う。
「んー……」
 だが不思議だ。
 その呆けた視線を見て、その呆けた声を聞き、そしてその呆けた体臭を嗅ぎながら食卓を見るなら、そこに並べられた料理の数々がぼやけて感じられて仕様がない。特に視覚は十数分前に完成させた料理を捉えていながら、“今日は何の料理を作りましたか?”と問われるなら、キチンと答えることができないのではないか。
 そういう薄ぼんやりとした恐怖にすら、囚われそうになる。
「……おきたてたよ」
 その声に、フッと我に帰る。“おきたてたよ”とは何か。少し考えてしまったが“起きてたよ”という言葉だろうとは、さすがにすぐ分かった。
 だが何だろうか、このパソコンの打ち間違えのような言い間違えは。
 姿形がそっくりなのに、何か1つだけ余計な部位をつけられたドッペルゲンガーと対峙するようで、気味が悪い。
 それでいてそんな言い間違えをしなければ、フッと我に帰ることもなかった気が美鈴にはした。
「じゃあすぐ来ればよかったのに」
「んー……」
 この「んー……」という返事には苛つかされる。この言葉を言った後、数秒の間があってめぐはやっと意味の通じる言葉を発し始める。とはいえそれも先程の「起きてたよ」くらいの長さで、しかも「おきたてたよ」などと間違えているが。
 めぐは遅すぎるのだ、起きることも、会話することも、生きることそれ自体も。“子ガチャ”に失敗したなと思う時がよくあった。
「起きてたんだよ……呼ばれるちょっと前から」
 だがお決まりの皮肉へのお決まりでない返答が娘の口から発され、少し驚く。
「じゃあ起きてたのに無視して部屋ずっといたの。そうだったらちゃんと言ってくれれば良かったってそう思わない?」
「んー……」
 もちろん苛ついた。だが彼女の言葉を待とうと、自分に言い聞かせた。
「……呼ばれる時には、もう既に起きてるんだよ、いつも」
 美鈴はその時から再び、食卓の皿の群れからめぐの顔へと視線を移した。
「いつも、何か……ママが私に起きてってとか言う……んー、数秒くらい?前に、何かいつも起きてんの…………それで、それから、数秒経ったら、ママの起きてって呼んでんのが聞こえる、何か……起きててね、目は閉じてるから暗い状態で、そんでママの声を聞いたら、目を開けて、天井とかが見える」
 娘の言葉を聞いている間、右手の親指が人差し指の側面を掻き毟りに毟っているのを、美鈴は感じざるを得なかった。長い文章を出力する時のめぐはいつだってこうなのだ。
 ただひたすらに、要領を得ない。
 もし“要領を得ない”という言葉を誰かに理解させたいのならば、辞書を読ませるのではなく、めぐが長文を出力する様に立ち会ってもらえばいい。美鈴は半ば本気でそう思っていた。
「だから……だからね、今日だけじゃなくて、こういうのママに起こされる時いつもなってる……だから、起きてたの」
「ふうんそう」
 めぐの言葉を聞いて、間髪入れずにそう言った。そして自分の思いついたことを喋り始める。
「何かそういうの聞いて思い出したことあるよ。車載カメラね知ってるでしょ車に取りつけられてるカメラね。それって事故とかが起こった時用に映像を残すためにつけられててずっと撮影してるわけだけどそれで実際追突されるでしょそれで追突された衝撃で録画が作動して映像が残されていくんだけどそれが作動した時点でその数秒前の追突するまでの映像が事後的に遡って残って事故前の数秒と事故後の映像が録画として残されることになるの」
 美鈴は一回、緑茶を口にする。
 高血圧の軽減には緑茶を飲むのがいいという情報をネットで見掛けてから、なるべく緑茶を口にするようにしている。
「そういう車載カメラみたいな感じでめぐというかめぐの意識が私の声で起きた時点で数秒前の記憶を遡り再生しているのかもしれないね。はは」
 もう一口、緑茶を飲む。
「じゃあ……」
 めぐはそう言う。
「ママに起こされるたびに……その後から再生された記憶分、私の時間……数秒戻ってるってこと?」
 めぐはそう言い、間髪入れずに続ける。
「じゃあママの時間と私の時間、どれくらいズレてるの?」
 そう聞いた瞬間、ピントが急激に合うかのように、めぐの顔が不気味なまでに鮮明に、美鈴の眼球に映った。親が遺した写真のなか、妙に大人びた表情を浮かべている、若い頃の自分の顔にそっくえいだ。何でなんだよ、誰なんだよ、いったいコイツは?


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。