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コロナウイルス連作短編その87「チェコの肉の塊」

 夕食にスパゲティを食べている際、小室安渡は突然皿に頭を突っ込んでそのまま動かなくなる。妻の小室カノヴァー望結はそれを傍らで目撃したが、最初は下らない悪戯と思った。しばらく彼の身体を眺める。右手を伸ばしその首を触ると、丸めたボール紙のような感触を味わう。死んでるな、蚯蚓の肉体に宿る鈍い煌めきのような天啓が、彼女の指先に齎された。全身が微かに震え始めながら、望結はしばらくボンゴレ・ビアンコを啜り続ける。安渡が作ったものだ。彼は料理にいかにワインを組みこむかを熟知しており、特に貝類とワインを使う時に手捌きたるや絶品だ。このボンゴレ・ビアンコは本当に美味しかった。

 人生を通じて、望結は憎悪する人間に対して"自殺しろ"と願ってきた。その人数は枚挙に遑がないが、今まで2回ほどその願いが成就したことがある。1回目は中学生の頃だ。机で本を読んでいると、何の脈絡もなく疋田泳という女子生徒が、その机の端に噛みかけのガムを擦りつけ、去っていった。そのガムは濃い灰色をしており、歯の無数の跡には腐爛した影が蟠っている。小さいながら、そこから濃厚に泳の唾の匂いが漂ってくる。泳が何故こんなことをしたのか分からない。ただ不条理への怒りだけが首をもたげる。本の中でちょうど登場人物の1人が梅毒を苦に自殺したので、望結は泳も同じように自殺することを願った。それが初めて人に"自殺しろ"と願った瞬間だ。彼女は数日間その本を読んでおり、ふと憎悪が首を擡げた瞬間に"自殺しろ"と願った。こうして疋田泳は本当に自殺を遂げた、屋上から身を投げたのだ。恋人に振られて、衝動的に身を投げたらしい。とても嬉しかった。
 この経験は望結にとってある種の成功体験となり、そこからどんな些細な理由からでも憎悪を覚えた人間に対して、心のなかで"自殺しろ"と願った。大学時代、望結は映画サークルに入部したが、そこで木田俊という青年に出会った。彼女はスイスの映画作家であるダニエル・シュミットの作品が好きだと言うと、俊は苦笑した。
「あんな低レベルな映画監督が好きなの? アイツの何とも行儀のいい、趣味のいい異国趣味には呆れるよ、ヴェルナー・シュレーターと同程度の低脳だな。シュミットが好きって言うシネフィルは、シネフィル受けするシネフィルだから、君もこのサークルで人気者になるだろうね」
 この発言をきっかけに望結は俊に対して"自殺しろ"と願い、実際2か月後に彼は山手線に飛びこんで命を絶った。線路に散らばったかもしれない肉片について想像すると、赤ちゃんのように熟睡することができた。
 だが望結は"死ね"と願ったことはない、あくまで"自殺しろ"としか願ったことがない。交通事故や病気によって突然死ぬというのは、むしろ死を意識する時間が短い分幸福だと、それでは私の憎悪が浮かばれないと、望結は思っている。自殺は死と苦痛を意識し続け、最後には一線を越えてしまう故の行為だと望結は解釈している。死自体ではなく、その思考の過程に想いを馳せると、望結は自分の憎しみが昇華されていくのを感じた。なので安渡にも"死ね"と願ったことはなく"自殺しろ"と願っていた。

 望結はしばらくスパゲティを啜る。もし映画だったら、望結は考える、食べてる途中にいきなり気分悪くなってトイレに駆けこんでゲロブチ撒けるだろうな、その時にカメラが吐瀉物を映す作品は傑作、映さない作品は駄作。そんな思考とともにしばらく自分の肉体を冷静に観察するが、結局望結はゲロをブチ撒けることがなかった。手を合わせて「ごちそうさま」でしたと、安渡に言った。食器やフライパンを洗った後、寝室へと向かう。
 タブレットでニュースを読む。チェコ文学の翻訳力を競う、スザンナ・ロート翻訳コンテストの結果が発表されていた。最優秀賞に選ばれたのは夫ではなかったので、安堵した。望結の父であるヤンはチェコ人だった。壮絶な女遊びと陰湿な暴力の挙句に彼女の母である万由子を捨てた故、彼を憎んでいる。チェコにすら荒れ狂う憎悪を抱く一方、自身のルーツを隠すことはない。それは父への敗北を意味するような気がした。だが隠さないという矜持は彼女を面倒臭い立場に追い詰める。大学の映画サークルではチェコスロヴァキア・ニューウェーヴに関して何度も意見を求められたが、当時のチェコ映画で好きな作品は1本もなかった。全てが軽薄すぎる。入社した会社では同僚からチェコ旅行でどこへ行くべきかと尋ねられる。チェコには行ったことがないし、今後行こうという気すら微塵もない。こういった出来事が性器に溜まる滓のように、心へ少しずつ溜まり腐食を遂げる。
 そんななかで安渡という男性はチェコに関して表層的に彼女へ意見を求めることなく、それでいて最も深くチェコへ耽溺していった人物だった。望結がチェコ人の父がいると言った時の反応は「へえ」とそれだけだった。だがその時から彼はチェコに関する情報を目敏く見つけ始める。チェコ映画が東京の映画館で上映するのならそれを観に行き、チェコ文学の翻訳が発売されたらそれを読む。だがそれを望結に勧めることはない、ただ時々面白かった作品に関しては会話の他愛ないネタの1つとして話す。望結はただ「へえ」と言う。一緒に住み始めた頃から、安渡のチェコへの耽溺はより深くなる。自身でチェコ語を勉強し始め、言語留学サイトを通じてチェコに友人を作るまでになった。彼の知的好奇心は無暗矢鱈で、躊躇いがなかった。
 ある時、リビングでテレビを観ていると遠くから安渡の声が聞こえてくる。日本語ではなく、チェコ語だった。その響きはウサギの糞のようだ。小さな尻穴から固く惨めな糞の玉が幾つもまろびでてくる。形は不自然なほごまちまちで、何の統一性もなくただ醜いばかりだ。そんな不愉快な響きが望結の鼓膜のうえでコロコロと転がり、虫唾が走る。だが数日、数週間、数か月をかけて安渡の発音や語彙は改善していく。彼の飽くなき努力によってチェコ語がどんどん洗練されていった。だが糞はいくら洗練されようとも糞であることに変わりはない。糞の響きは毎日毎日耳を侵食してくることとなる。ふとした瞬間、自分の唇が勝手に動いていることに望結は気づき、愕然とする。唇はチェコ語を模倣しようとしていた。当然、何を言っているのかは分からない。だが自分を罵倒する言葉だと思えた時、唇の動きを止められなくなる。望結は自分の顔で蠢くその肉の塊から、他でもない自分の低く、野太い声が聞こえてくるような気がした、喉すら震えていないのにだ。それが忌まわしき父親の、男としては威厳の欠片もない、甲高い声に重なっていき、最後には母親への罵詈へと変貌を遂げる。自分が父親と同種の存在になるような気がして怖かった。
 ある時、ベッドで眠ろうとしていた望結に、安渡が話しかける。
「俺の友達が送ってくれたチェコの小説あるだろ、あれ読んでるんだけどすごい面白いんだよ。何か、薬草を集めている老婆が主人公なんだけど、彼女がどういう風に薬草を集めているか、その薬草にはどういう効き目があるのか、みたいなのが延々と語られる。ある意味、植物学的なエッセイっぽさもある。だけどそこから老婆のこう、人生みたいなものが少しずつ浮かびあがってくる豊かさみたいなのもあるんだよ。単語とか文法とか難しいんだけど、でも読むのが楽しい」
 安渡が笑った。その時から望結は彼に対して“自殺しろ”と願い始めた。
 リビングに戻るが、相も変わらず安渡はボンゴレ・ビアンコのなかにそのまま突っ伏していた。ああ本当に死んでいるんだな、望結はそう悟る。彼は目前で死んでくれながら、その暴力的な唐突さによって自分の憎しみは行き場を失ってしまったと思える。冷蔵庫から牛乳を取り出して、青い鳥の描かれた黄色のカップに注ぐ。それをレンジで3分間温めて、ホットミルクを作った。そこに少しだけ安い赤ワインを入れ、ソファーの上で飲む。柔らかな温もりが少しずつ身体へと浸透していき、微かな酩酊感に意識がフワフワと宙に浮かぶ。気分が良いなかで、マスターベーションで下半身に蟠るモヤモヤを解消した後、寝室に向かいそのまま眠る。

 夢の中で、望結はどこかの酒場にいた。こじんまりとして、古びた光沢の木目からすえた匂いが香る、田舎的な酒場だった。テレビではサッカーの試合中継が流れ、壁にはジュリエット・ビノシュの映画ポスターが張ってある。ビノシュは嫌いだった。廻りにいる客は全員が明らかに白人で、しかも皆の顔がアルコールで滑った赤を誇っている。いきなり目の前のテーブルにビールが置かれたが、その勢いが乱雑ゆえに液体が大々的に溢れる。店員は気にしない。望結は飲んでみるが、死ぬほどぬるかった。後ろの男たちの喋り声が聞こえる。何故だか日本語で、しかも地上波で放映するハリウッド映画の吹替さながらに大仰な響きで、違和感だけがある。だがしばらく聞いているとその荒唐無稽な大仰さの裏側に、あのウサギの糞のような響きが聞こえてきた。望結はビールを一気に飲みほし、酒場から逃げるように立ち去る。
 灰褐色の曇天、毒の粒子が凝縮したような濃霧、その隠滅の雰囲気に包まれながら、彼女は恐る恐る歩いていく。疎らに建っている家々は素朴な佇まいながら、壁には黴のようにくぐもった傷の数々が穿たれている。地震が来たら全てが真っ先に崩れ去るだろうとそう思える。こうして目の前に広がっているのは、彼女が思う“東欧の田舎町”といった風な光景だった。実際にそういった場所に行ったことはないし、都会的人間を自負する望結は東京と千葉以外の場所から殆ど出たことがない。この風景は今まで観てきた東欧映画の断片的イメージから作られた虚構だった。貧相な想像力、望結はお腹を掻きながら嗤った。だが歩きながらふと気づくことがあった。家々の門に、必ず何らかの小さな、円錐型の箱が吊ってあるのだ。6軒目の家の門には紫色の箱があった。興味を持ち、近づいて手を伸ばしてみる。だが蓋と箱の隙間から小さな虫が飛び出し、望結の右目の網膜に衝突した。夢から覚めることはないまま、望結は思わず走って逃げ去る。
 不快さと戦慄による動悸を抑えるため、しばらく歩いているとドスンと、濃霧の向こう側から轟音が響いてきた。怪訝に思いながら前へ進んでいくと、地面に倒れている男を見つけた。近づいて顔を確認すると、父のヤンだった。腐ったトマトのように膨らみ弛んだ巨大な鼻を片時も忘れたことがない。先の音から彼は車か何かに轢かれたかと思ったが、実際彼は息をしていた。ただ眠っていた。その酩酊丸出しの赤ら顔には弛緩した幸福感が宿り、能天気な寝息まで立てている。虫酸が走った。
 呑気に地面に横たわるヤンという名前の肉塊、だがその腰部の横に割かし大きな石があることに、ふと望結は気づいたんだった。目を惹かれておもむろに近づいていき、しゃがんでその濃灰の歪な石を眺める。好奇心からそれを掴んでみる。何の変哲もないただの石と最初は思えた。だが手のなかで石は少しずつ重みを増し、望結はいつの間に灰色の濃密体が手の肉に喰いこんでいるのに気づいた。そして皮膚と石の微かな隙間から、ゴポゴポと赤黒い血肉が溢れだす。引き抜こうとするが、無理だ。石は更に沈む。そして石から1つの言葉が響き始める。あのまろびでるウサギの糞の響きで、同じ言葉を叫び続ける。今、望結にはそれが何を意味するのか完全に分かった。恐怖はなかった。彼女は肉にめり込んだ石を握りしめる。
 そこで目が覚めた。全身汗まみれになりながら、あれが夢であったことに落胆し、しかし右手には灰色の石を握られているのに気づき、高揚感を抱く。部屋の外から物音が聞こえてきて、心が更に暖かなもので満たされる。改めて石を握りしめ、部屋を出る、意気揚々とリビングへ赴く。そこにはボンゴレ・ビアンコに頭を突っ込み微動だにしない安渡がいた。ガッカリした。彼は確かに死んでいた。望結は皿の端に左の人差し指を突っこみ、アサリとパスタの出汁を舐める。既に大量に安渡の顔の脂が溶けているはずだったが、美味しかった。安渡の死骸の傍らで、その後頭部を見下ろしながら願う。
 生き返れ、生き返れ。
 望結は石で自分の太股を軽く叩く。
 そして私が殺す。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。