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コロナウイルス連作短編その73「ははは」

 川城唯はパソコンと対峙しながらも、実際に仕事はしていない。チラチラと手許に視線を送り、自身の爪を見る。爪にはコロナ禍が終った後に旅行したい国――親指から順にモンゴル、チリ、タイ、ポルトガル、ラトビア――の国旗が色鮮やかに描かれている。モンゴルではガンダン寺の荘厳な巨大仏像を見上げてみたい。チリではバルディビア国際映画祭に足を運びたい。タイではホアヒンの高級ホテルでくつろぎたい。ポルトガルでは前にも行ったリスボンのレストランAqui na terraのテラス席でナタを頬張りたい。だが唯が今一番行きたい場所はラトビアだった。リガ中心部を流れる大きなダウガヴァ川には幾つもの孤島があるが、唯はそのなかの1つであるザチュサラ島、この島を描く映画を観てそこに根づくものに魅了されたのだ。この島に行けたなら川岸に腰を置いてその芝生の感触を感じたい、向こう岸に見えるリガの瀟洒な街並を眺めたい、そしてラトビアの清冽な風を感じたい。
 ふとした瞬間、唯は自分の手が実際以上に大きく見えた。これが、自分の手は大きすぎるのではないかという猜疑心にまで辿りつくにはそう時間がかからない。よくあることだったが、毎回厭になる。何気ない日常のなかでこのモヤモヤが深奥から湧きあがり、唯の平静を搔き乱すんだった。
 普通だって、普通。こんなに手が大きい女性なんて沢山いるって。
 こういった言葉を心で念じて、唯は曖昧な不安を少しずつ抑えていく。
「晶人さん」
 上司である矢賀史枝がそう言ったので、唯の心が飛び跳ねる。
「……間違えた、唯さん」
 そうして軽く言い直す様が唯には不愉快だった。"コイツ、マジでブッ殺すぞ"と心の声にドスを効かせながら毒づき、頭のなかで世界史で習う類の形で彼女を拷問する風景を思い浮かべる。焔を呑まされた者が抱くだろう怒りのなかで、自分の手がどんどん膨張していく感覚をも味わわされてしまう。唯は肉を掻き毟りたくなった。
 同僚の理智麗と近くの公園で昼食を食べる。仕事場の近くにはThe Incredible Sarahという人気のレストランがあり、ここのサンドイッチを2人は愛している。今日唯は焼きバナナとピーナッツバターのサンドイッチ、麗はスモークポークとリンゴのサンドイッチを食べる。一緒に最初の一口を食べて、その美味しさに頬を蕩かせ、喜びの悲鳴をあげる。
「昨日さ、鰯と『モンスターハンター』観に行ったんだけどさあ……」
 鰯とは麗の恋人である岩下正人のニックネームだ。名字が岩下で麗よりも握力が弱いので鰯だ。
「鰯はゲームやんないからって結構楽しんでたけど、わたしはモンハンガチ勢だから結構文句あったなあっていう。後で調べたら、監督って前も『バイオハザード』映画化して酷かったじゃんって納得したね。面白かったの、1作目でオッサンがサイコロステーキになるトコだけだったし……」
 唯は忌憚ない彼女の感想に思わず苦笑する。
「唯はこの監督、ポール何ちゃらって人の映画どう思う?」
 そう聞かれると、唯はその監督ポール・W・S・アンダーソンの話が止まらなくなる。彼女は本当に映画について話すのが好きだった。作品に見えてくる監督の作家性や作品ごとの蘊蓄について語らせたら終りが見えなくなる。だが対する麗は相当の聞き上手であり、その快活な反応や相槌に唯の講釈欲が的確に刺激されて堪らない。コロナウイルスのことなど完全に忘れ、唯は唾をそれはもうブチ撒けながら一気呵成に話を続け、最後には唯も鰯もグロテスク描写に対する耐性があると聞いた上で、自身のフェイバリット作品『イベント・ホライゾン』と、渋みある隠れた傑作と彼女が思う『ザ・サイト/霊界からの依頼人』を勧めた。
 こうして気分よく仕事場に帰りながら、上司である史枝の姿が視界に入ると鬱々とした気分になる。彼女にまた"晶人"と呼ばれるのでは?と思うと向かっ腹が立ってならない。同僚たちもそれを咎め立ててはくれない、悲しいことに麗も含めて。これをいったん意識してしまうと、脳髄の神経がピアノ線さながら張り詰めてしまい、安堵する時間がない。更に勤勉に仕事をこなした後も、今日はデートに行く筈が新たな仕事を押しつけられ、神経が摩耗していく。これを何とか整理し、唯は急いで仕事場を出る。そこで麗と鉢合わせし「デート、良いことあるといいねえ!」と声援を送ってくれたので、少しだけ機嫌が良くなる。

 駅でデート相手である求院ソニアと落ち合う。視線が交錯した瞬間、ソニアがマスクを外し笑顔を見せてくれて、自分の心が驚くほど弾むのに気づいた。泥濘のような夜空の下、2人は夜景の見える川沿いを歩いていく。ソニアはブラジルと日本のダブルで、2つの国を行きかいながら生活している。結は、ソニアの心に惹かれる一方、ソニアの肌により深く惹かれていた。そこではまず健康的な小麦色が際立ち、それは唯が勝手に抱くブラジルの燦燦たる日差しというイメージに合致するものだ。しかしそこに塗されているのは灰燼の色彩、退廃的な翳りだ。ソニアの肌の上でこの2つの矛盾する色彩が理を越えて混ざりあっている。そこに否応なく惹かれた。そしてソニアの爪も好きだ。ソニアはその鋭い爪へ、いつもシンプルに1つの色彩だけを塗っている。今日はサファイアのような緑、華麗だ。
 春のぬるい夜風を浴びながら、他愛ない会話を繰り広げる。最初は最近観た映画の話をした。結は『水のなかの林檎』というラトビア映画、ソニアは『千と千尋の神隠し』について。それからソニアがした自転車でのちょっとした独り旅、唯が前に何度かデートした相手――ネイルをしていて、映画の話も面白く、セックスも悪くない晃という男性。セフレにしかならないという妙な確信――、ソニアが最近聞いてるOs Mutantesというブラジルのロックバンド……ソニアと会話しながらその存在を傍らに感じていると、唯は思春期に感じていた極彩色のドギマギを感じてワーッと叫びたくなる。何とか我慢する。
 そこでYoutubeの話になり「どんなYoutuber観るの?」と、ソニアに対して唯が名前を挙げていく。HIKAKIN、ヘラヘラ三銃士、シバター、土佐兄弟、ジェラードン、きまぐれクック。唯は最後にオリエンタリズム靖子の名前を挙げた。
「んん、知らない」
 ソニアはそう言ったが、唯はソニアの表情を観察した。左の瞼が、まるで蛭に血を吸われたかのように痙攣しているのに気づく。
「本当? 結構有名だけど」
 ソニアに戯れるように、唯は笑いとともにこれを口にする。
 オリエンタリズム靖子は"ゴリゴリオカマYoutuber"を自称する人物で、TVで有名な"オカマタレント"を更にえげつなくした濃さの扮装――唯には発情したインドクジャクの雄にしか見えない――をしながら、19世紀の英国貴族さながら絢爛にし汚らわしい話術で以てドギつい下ネタを披露している。1人トークも魅力的である一方、MC/インタビュアーとしての能力も抜群で、ゲストを呼んだ際の再生数は背景に札束を幻視するほどに凄まじい。このキャラクターで人気は急上昇中、ついにはTVにまで進出し、唯の同僚たちにも認知されていた。
 その光景を彼女は苦々しく見つめている。オリエンタリズム靖子にはかなり不快感を抱いていた。日本のメディアにおいて、トランス女性の表象があまりにステレオタイプに偏り過ぎている(男好き、セックス好き、シスヘテロ女性の気の置けない毒舌の親友、しかし根底の価値観は女性嫌悪的)と唯には思えた。今までそういったタレントが散々輩出されながら、オリエンタリスム靖子はこれを更に深化させるようなキャラクターを確立し、人気までも確立してしまったというのが唯の見方だ。こういった"オカマ"キャラと私は違うと自分と思えども、メディアの伝播力によって周囲の人々は2者を同一視しようとする。これがあまりに迷惑だ。
 そしてソニアもオリエンタリズム靖子の動画を実は楽しんでおり、興味本位で自分とデートしているのでは?という猜疑心を抑えられないでいる、ソニアに好意を抱いている筈なのにだ。歩きながら、ソニアの手と自分の手が近づいては離れていく。国旗の描かれた爪、サファイア・グリーンの爪、2者が一瞬に触れて火花のような高揚感を春の陽気に弾けさせる。しかし最後には全て消えて、2つの身体は離れていく。この感覚がもどかしい。今すぐにソニアと両手を繋ぎ、月に祝福されながらメリーゴーラウンドのように回りたい、回り続けたい。

 家に帰った唯はなかやまきんに君の動画を観ながら健康的な食事節制について学ぶとともに、有酸素運動を行う。全身10種目を行うが、唯が特に好きなのは腕ダッシュだ。肘を90度曲げて、走る時のように腕を動かしていく。肩周り腕周りが急速に躍動するのを感じ、同時に胸部も鍛えられていくのが如実に分かる。腹筋などを意識しながら、体幹をしっかり支えながらこれを行うのはなかなか難しい。だが60秒間、これを本気でやると、疲労とともに満開たる爽快感に包まれる。この感覚がいい。
 運動の後、ベッドの上で休息を取る。誰かと一緒に過ごす時間も楽しいながら、こういった静やかな孤独の時間も自分には必要と思える。静謐のなかで心が癒されていく。ふとソニアの笑顔を思い出し、不覚に恥ずかしくなった。その顔が一瞬でオリエンタリズム靖子の下品な笑顔へ変わる。急転直下の不快に苛まれる。
 どうせサイードもマッケンジーも読んだことない癖に、響きがいいからって使ってんじゃねえよ。
 虫唾が走りながら、オリエンタリズム靖子のYoutubeアカウントを見に行っている自分に、唯は気づく。だがいつもと様子が違う。いつも動画のサムネイルはキャンプといったド派手さに満たされていた。だが今回は黒の背景に白い文字でただ"お知らせ"と書かれている。心がザワつく一方で、唯はつい動画をクリックしてしまう。服装はいつもと変わらない、インドクジャクの発情が画面から噎せ返るほど匂いたってくる。だがソファーに座っているオリエンタリズム靖子の表情は滑稽なほど神妙なものだった。しばらく何かを言い淀んだ後、声を喉から振り絞る。
「オリエンタリズム靖子、実はクローン病という難病と診断されました」
 クローン病、聞いたことのない病名だった。しかし彼女が壮絶な不幸に見舞われたというのは容易に伺える。そのまま唯は靖子の話を聞き続ける。実は最近食欲不振や下痢の頻発など体調が悪かった、病院へ行ってみると胃腸の検査を勧められた、大腸の内視鏡検査を終えた後にクローン病と診断された……そういったことを驚くほどの朴訥さで語りながら、いつしかオリエンタリズム靖子は嗚咽し始める。涙を抑えられないでいる。
 ははは、自分の唇から乾いた笑いが漏れるのに唯は気づいた。不思議な怜悧さで、はははという笑いをまるで遠くから耳を澄ますかのように観察する。これをどんどん大きなものにしていきたいと思える。なので釣り糸を手繰り寄せるように、喉から笑いを引き出していく。ははは、ははは。これを続けると自動的に笑い声が溢れだし、果てには肺を爆心地として炸裂していく。本当に、本当に愉快な気分だった。唯はオリエンタリズム靖子の動画を観るのを止め、なかやまきんに君の動画へ戻り、有酸素運動10種目をいつもより激しい勢いで行った。肺だけでなく、肉体全てが爆裂する勢いだった。最後には疲れ果て床につっぷしながら、この現象すらもやけに可笑しく思えて、唯は笑う。

 翌朝目覚め、最初意識は曖昧だったが、霹靂さながらの唐突さでオリエンタリズム靖子の難病を思い出し、昨夜の高揚が鮮やかに蘇る。しかし自分に落ち着けと言い聞かせながら、朝の支度を丁寧にこなそうと試みる。お湯で顔を洗う、山芋と納豆をかけたご飯を食べる、着替えをする、メイクをする。口紅の乗りが妙によいので、少し嬉しくなる。そして外に出た時に当然感じる陽ざしが、いつもより優しく感じる。以前旅行に行ったポルトガルのマデイラ、その頑健たるカリェータ岬を包みこんでいたあの柔らかな朝の陽ざしをふと思い出す。
 仕事場で麗と出会い「嬉しそうだねえ、彼女とのデート成功したんでしょ」と言われた。実際には違ったが、ニヤニヤを抑えることができない。
「ねえハグしていい?」
 思わずそう言っていた。
「いやいや、アメリカ人じゃないんだから」
 そう笑いながら、麗の方が唯をハグしてくる。ヒョコヒョコと酔っぱらったウサギのようにグルグル回り、しばらく幸福感に包まれる。
「あとね、"彼女"でも"彼"でもなくて、ソニアはソニアなんだ」
 そのまま浮ついた気分で仕事をこなし、時おりネイルを見て観光地に行く妄想をする。唯はイースター島のラノ・ララク山を歩いていく。剥き出しの岩さながらの巨大な山は彼女を荘厳な気分へ導く。しかし道々にはお馴染みのモアイ像が突き出ており、シュールな無表情に唯は不覚にも笑わされ、荘厳も形無しだ。そして彼女はひと際大きなモアイ像を発見し、しばしその前に立ちずさむ。先に感じた荘厳と可笑しみを、不思議と同時に感じた。ははは、喉からそんな笑いが自然と現れた。気づくと横にはソニアと麗がいた。唯は2人と一緒に、イースター島に笑い声を響かせる。
「晶人さん!」
 また史枝が唯をそう呼んだ。いつもは注意しても無駄だと諦め、素直に返事をして仕事をこなした。だが今日、唯は席から立ちあがり、足音を堂々と響かせながら歩き、上司の許へ詰め寄る。
「私の名前は川城唯です、晶人ではありません。そもそも部下を下の名前で呼ぶというのがあまり適切ではないと思います」
 マスクで史枝の口許は見えない。だが視線の支離滅裂な動きを見て、やってやったと思えた。唯は机に戻り、仕事を再開する。
 昼食の際、麗たち同僚と話す。
「いや前から、ホント下の名前で呼ぶっていうのはないと思ってたよね。言ってくれてよかった」
「外国人上司ならまだ理解できるけどさあ」
「あの人、マジで純ジャパおばさんって感じの顔だわ」
「いや、俺らも普通に純ジャパ顔だろ」
 同僚たちが笑う。麗が笑う。唯も笑う。
 ははは、ははは、ははは。
 唯は自分の手を見つめる。それは大きくも小さくもない。
 ははは。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。