コロナウイルス連作短編その75「耳のいい日本人たち」
「君、耳いいね」と褒めてくれた友人のチャ・ジュンファンに、馬場園真崎は似鳥三波を奪われた。少なくとも彼自身はそう思っている。
コロナ禍によって大学活動は著しく制限されたが、そこにはサークル活動も含まれていた。だが真崎の大学の生徒はSNSを通じ、同級生たちが集まれるコミュニティを作りあげた。中でも彼は映画好きが集まるコミュニティに参加し、趣味と同じくする者たちと交流を深めていく。そのうち近くのミニシアターに何人かで集まり映画を観たり、公園に集まって歩きながら映画を語るなどする。今はただ友人と集まるにも工夫を凝らす必要がある。
その中で、彼は似鳥三波という同い年の女性に惹かれていく。北欧の陰鬱な映画が好きという言葉に、他の映画好きな女子学生とは違うものを感じた。だがそれ以外にも映画の嗜好は広い。アピチャッポン・ウィーラーセタクンらによる幻想的なタイ映画、シアター・イメージフォーラムで上映される類の実験的なドキュメンタリー、時おり東京で上映されるジャック・リヴェット作品。ミニシアター系が好きかと思えば、シネコンにも頻繁に行くという。ある時彼女は『窮鼠はチーズの夢を見る』というゲイが主人公のロマンス映画に感動したと真崎に話した。
「いや俺、ちょっとホモ映画は……」
「その言葉、ダメだよ」
三波は驚くほどの勢いで"ホモ"という言葉を咎めるので、思わず気圧される。今までにない動揺と高揚を感じた。真崎の考えを正そうとした後、彼女はいわゆるBL映画やBL漫画を勧めてくる。その真摯さに応えるため、勧められたものに全て触れた。映画も興味深かったが、真崎は今まで漫画をあまり読んでこなかったのでその豊穣さに新鮮味を感じた。『オールドファッションカップケーキ』の抑制されながら滲みるような恋心、『ノイド~愛のすくう星~』における独特のSF的な想像力、『3番線のカンパネルラ』のもどかしいまでの愛の葛藤。それらを貪るごとに、不思議と三波への想いが深まる。
彼女と同時に仲を深めていったのが韓国からの留学生であるジュンファンだった。同世代には珍しく白黒の古典映画が好きだが、SNSでの"忌憚なき発言"がたびたび議論を巻き起こした。
"ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』は映画史上最も下品な作品だ。そしてあのルネ・ファルコネッティの顔面は映画史上最も卑猥だ。これを褒めてる人間はドライヤーが2年前に作った真の傑作『グロムダールの花嫁』を観ていないド低脳だけ"
特にこの発言はコミュニティを越えてとあるフランス被れの映画批評家を怒らせた。ジュンファンは彼や彼の信奉者からネットリンチを受けるが、それを意にも介さずに"忌憚なき発言"を流し続けた。真崎はこれが気になり、ジュンファンにメッセージを送った。
"俺が映画史上最も下品な作品って思うのはジャン・ルノワールの『女優ナナ』だよ。あのケバくて醜いカトリーヌ・ヘスリング見てたらゲロ吐いた"
すぐにメッセージが返ってきた。
"全く同じこと思ってて笑った!その前の『カトリーヌ』や『水の娘』は最高に美しいのに"
2人はすぐに意気投合し、キング・ヴィダーやダグラス・サークについて花を咲かせる。そして会話の中で、2人ともフェヨーシュ・パールというハンガリーから亡命してきたアメリカ人監督が好きということが分かった時、真崎は小躍りしそうな喜びを覚えた。そして彼らは映画について語り、シネコンとミニシアターに関わらず一緒に映画館へ足を運び、酒を飲みながらまた映画について語った。その会話には笑いながら頬骨を殴りあうような危険な楽しさが宿っていた。真崎が特に好きだったのはSHIBUYA TSUTAYAで落ちあう時間だ。ズラっと並ぶ古典映画のソフトを眺めながら、コロナ禍も忘れていつまでも喋った。何度ここに来ても、新しい話題は尽きなかった。
一方で真崎は三波を何度かデートに誘いながら、返ってくるのはやんわりと誘いを断る微妙な返事だった。友人たちの前で漫画を貸してくれることはあるが、1対1で会ってくれることはない。真崎は、相手が誰かは言わずにジュンファンにこのことを相談してみる。粘ってみろと勧められ、真崎はこの言葉通りに粘り強くメッセージを送った。ある日、いつもの素気ないメッセージの代わりに、長文が送られてきた。要約すれば"気持ちが悪いから、今後デートに誘ってくるのは止めてほしい"というものだった。最初に読んだ時はメッセージの意味が分からず、もしくは分かった上で、真崎は10分間ただただ爆笑し続けた。肺胞の爆裂が、既に壊死しているかのような狭苦しい部屋に響き続けた。それから真崎はトイレに籠って泣き始めた。不思議と右足の親指が熱いほどに痛んだ。
どこかの映画バーに同級生たちが集まるらしいという情報を見た。久しぶりに友人たちに会いたかったが、三波がいるかもしれないと思うと躊躇われる。だが電車を乗り継いで、その映画バーに行く。中には入れない。入れないまま、立ち尽くしたまま、昼が黄昏に取って代わられ、真綿のように疲弊しきった夜がやってくる。唐突に、バーから出てきたのは三波とジュンファンだった。他には誰も出てこない。しばらく2人についていくうち、関節が痛みはじめる。腐った木材が発するような軋みが聞こえる。そして三波はジュンファンにキスをし、ジュンファンは三波の臀部をまさぐる。
「お前、耳いいな」
一緒に韓国映画を観に行った時、真崎はそこに出ていたキム・サンホという中年俳優のセリフを真似した。それに対して、ジュンファンがこう言った。満更ではない気持ちだった。確かにスペイン語の授業で教師には発音を何度も褒められた経験がある。外国語に対する耳の感度は良いのかもしれない、真崎はそう思える。だが語学自体の才能はなく、英語は高校受験を通じて徹底的に詰めこまれた結果、ある程度は喋れるが、大学で習ったスペイン語は発音以外最低の成績だった。古典や漢文もからきしだった。逆に彼を褒めたジュンファンは韓国語は当然として、日本語と英語、さらにフランス語とドイツ語が流暢で、この語学力をいかし真崎より多くの映画を字幕なしに楽しんでいた。不当だと思える、低温火傷のような憤慨を覚える。
気まぐれに、真崎は韓国語を勉強し始める。HelloTalkという語学学習アプリを通じて、チョン・イヒョンという30代の女性と仲良くなった。彼女は邦画が好きで、最新の邦画が知りたいと英語でメッセージを送ってくる。韓国で観れるかは分からないと前置きしたうえで、真崎は川添彩の『とてつもなく大きな』や工藤里穂の『オーファンズ・ブルース』、内山拓也の『佐々木、イン、マイマイン』といった作品を勧めた。数日後、彼女がその作品を全部観たうえで感想を送ってきたので驚いた。コロナ禍を圧して日本に来たのか、それは違った。実は映画批評家ゆえに、色々なコネを駆使して観ることができたらしい。真崎は彼女のアイコンを見た。鼻の横にあるホクロに、妙な気分を覚える。妙な気分を覚えた。
イヒョンとは主に日常会話について勉強する。
"いや、発音すごい良いよね。1か月しか学んでないって絶対嘘でしょ(笑)"
彼女も真崎を褒める。満更ではない心地だ。彼としてはただ発音された通り、発声しているだけだった。口や舌の動きは特に意識していない。自分がちょっとした天才なのではないかと少し思える。ある時、真崎はホン・サンスの『それから』を観た後、ホンの分身のような不倫中年男を演じたクォン・ヘヒョの台詞を真似て、ボイス・メッセージを送った。"ㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋ"というメッセージが送られてくる、日本語の"wwwwwwwww"に該当する省略語だという。更にわざわざボイス・メッセージで笑い声まで送ってきた。その笑い声とアイコンの写真を反芻しながら、真崎は夜にマスターベーションをした。
韓国映画をしたのは意外にも、交流がしばらく続いた後だった。古典が好きでキム・ギヨンが特に好きだと言うと、彼女はイ・マニという監督の作品を勧めてくる。韓国映像資料院のYoutubeアカウントで配信作品を調べた時"A Triangular Trap"との英題がついた作品が目につく。なのでその『三角関係の罠』という作品を観ることにした。題名から想像できる通り、1人の女と2人の男の三角関係がここでは描かれている。だがその暴力性、淫猥さがあまりに過剰かつ異様で驚かされる。男たちの不合理かつ陰湿、だからこそ徹底的な感情が下痢便さながらスクリーンにブチ撒けられ、それに塗れながら女は壮絶なまでに虐げられる。更に物語が展開するにつれ、少しずつ女の存在が忘れ去られ、男2人の憎悪劇と化していき、吐き気は最高潮に達する。
観ている間、本当に気持ちが悪くなり、不愉快になり、その勢いでスーパーで買ってきた安い焼酎を鯨飲してしまう。案の定、彼は泥酔し便器に吐瀉物をブチ撒ける羽目になる。そのなかに昨日食べたサーモンの刺身らしき橙の破片が見えた。彼は這いずるようにトイレを出て『三角関係の罠』を最後まで観ないままに、眠りに墜落する。そして悪夢を見た。毛深いヴァギナに太いペニスが挿入される様のクロースアップという、ポルノによくある構図が延々と、永遠と続く。ペニスは激しく動くが、視点は一切変わることがない。真崎は直感でこれらが三波とジュンファンの性器であると分かる。ジャップのマンコにチョンのチンポが入ってる、そんな表現が思い浮かんだ。
悪夢から飛び起き、一気呵成に孤独を感じた。真崎は思わずイヒョンに電話をかけてしまう。
「えっ、何、どうしたの?」
イヒョンは英語で言った。
「もしもし、もしもし?」
今度は日本語で言った。だが唐突に男が電話口に出てきて、凄まじい剣幕で何らかの言葉を捲し立てる。明らかにこの男は憤怒していた。真崎は電話を切る。恐怖に怯えながら布団にくるまるが、眠れないまま妄想ばかりが悪化する。男はイヒョンの恋人か夫で、自分を浮気相手かと思いブチ切れた。こういったナラティヴが真崎の脳髄に構築される。そして怒りを抱く。怒りを抱く。その矛先は男ではなく、イヒョンだ。夫や恋人がいることを自分に言ってくれなかったことを憎む。被害者意識で構わないから、彼女の頬骨を砕いてやりたいと思う。怒りに任せて、真崎はペニスをしごく。アルコールのせいで一切勃起はしない。射精はした。
真崎はソン・フンミンという同い年の青年と、HelloTalkで発音の勉強をする。彼もやはり真崎の発音を褒める。だがある時"東京、コロナ大丈夫か?"というメッセージが送られてくる。
"酒の提供禁止とか、夜8時以降は街灯以外消すとか、禁酒法時代のニューヨークと第2次世界大戦の時のパリが合体してる、ははは"
ユーモアの皮を被った憐れみに思えてイラつかされる。韓国の万全な体制を言外に自慢するメッセージにも思える。そして韓国人の口、いや手から"第2次世界大戦"という言葉が紡がれたことに、自分でも驚くほど動揺した。深夜、急に豚骨のカップラーメンが食べたくなり、夜へと躍りでる。今はまだまだ道に灯が満ちながらも、日曜日からは街灯と月明かりだけかと妙な高揚感を抱く。そういえば前に停電あったけど、何かワクワクしたな……イヤホンをしながら、ボソボソと韓国語の発音を練習していると前から女性が歩いてくるのに気づいた。一瞬、街灯に照らされその顔が見える。三波に似ていた、イヒョンにも似ていた。真崎は女性に走りよる。
「토마토는 야채에요!」("トマトは野菜です")
その唐突な絶叫に車多あいさは、自身の心臓が爆散するような錯覚を味わう。男性は脱兎さながら逃げさり、あいさも逆方向へ走る。息が切れるまでとにかく走り続けた。ひと際輝く街灯にまで辿りつくとそこで止まり、呼吸を整える。
「灯火管制とか絶対、犯罪増えるでしょ」
同僚である四階朝見の言葉が自然と思いだされる。あの絶叫以上のことがなくて幸運だったとあいさは思う。だけど、何でこんなことで幸運と思わなくちゃあいけない? 何でこんなことで幸運と思わなくちゃあいけない?
だが奇妙な疑問が浮かぶ。さっきの謎の言葉は一体何かと考える。少なくとも日本語ではなかった。しかし親しみを感じた。しばらくの思考の後、ふとあの言葉が韓国語だと思う。彼女の恋人である女性、髙橋万穂が最近『ヴィンチェンゾ』や『悪霊狩猟団カウンターズ』など韓国ドラマをNetflixで観るのに嵌っており、彼女も付き合ってそれを観ていた。絶叫の響きはそのドラマに出てくるキャラクターたちの言葉の響きに似ていた。
最低な韓国人もいたもんだなあ。
そう思った直後、主語を大きくしてはいけないと考え直す。だが胸を痣色の瘴気が満たすのを感じる。
家に帰ると、洗面所のドアが閉まっているのに気づく。それは万穂が全裸で洗面所にいることの証だった。風呂に入っている時は閉めない、だが洗面所で身体をケアしている時は絶対に閉める、それを当然だが知っている。それを分かりながらわざとドアを開き、厭な顔をされると堪らなくゾクゾクする。母親が幼い我が子に鼻糞を擦りつけられるような屈辱を、万穂が感じているかと思うと無邪気に喜びたくなる。しかし少し前に本気でこの行為を咎められ、しばらくは止めていた。ああでも開けたいな、そんな思いに晒されていると、中から水の微かな飛沫の音が響いた、そんな気がした。あいさがドアに耳を当てると、チロチロという音がもっと明確に聞こえた。
ああ、おしっこしてんだな。
あいさは笑みを抑えることがどうにもできない。彼女がトイレから出てきた瞬間、こちらも凄い勢いでドアを開いて、全裸の彼女を驚かしてやろう、あいさは両手で自身の頬をグリグリと動かす。万穂の、ザクロが爆散したような驚きの表情が見られる、そう思うと心がポカポカになっていくのを感じた。
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。