見出し画像

コロナウイルス連作短編その88「母の日」

 深夜、白井コウは一心不乱に車を走らせる。遺骨さながら乾き切った彼女の両腕はハンドルと既に一体化している。その結合を解いたのは、助手席で震え始めるスマートフォンだ。車を走らせたまま形態を掴む、電話は母親である白井尼子からだった。虫唾の煌めきのままに携帯を助手席へ投げ捨てる。震え続けた、バイブ音が車内の空気をグラグラと揺らす。時空間そのものが歪むような感覚がある。コウは闇に向かってアクセルを更に踏みこむ、鬱蒼たる密の林を進み続けるように。数時間後、海に辿りつく。海岸の近くへ適当に車を停めた。コウは携帯を開いて、動画を観る。そこにはガーターベルトを身に着けた、恋人の海川エルの臀部が映っていた。鷹揚に揺れる彼女の尻の脂肪に、橙色の液体がかけられる。オレンジジュースだった。ジュースのパックを持っているのはコウの右手だった。
 海へと向かう。左の脇腹に引き攣った痛みを感じる。CMで喧伝されるどこまでも引き伸ばされた湿布、その伸長する苦痛が肉の内側に蟠っている。階段を下り、砂浜に足を踏みいれ、しばらく歩くうち両の靴を遠くへ投げ飛ばす。砂粒の摩擦には冷たさと熱さの間にこそある不愉快さが宿っている。歩くごとに生の足がその淀みに深く引きずりこまれ、しかしコウは前進する。ある時点で止まる。膿は群青色の液体金属であり、その表面では月光が天使の屍の群さながら艶めかしい光を放っている。コウは服を脱ぎ、瞬く間に全裸になる。そうして全速力で海へと飛びこんでいく。
 液体金属の巷を、コウはクロールで泳ぐ。腕の執拗な回転、最初から全力だった。準備期間を与えられなかった筋肉や骨が悲鳴をあげ、極細の細胞が無音で爆裂を遂げる。腰の引き攣った痛みが無限へと更に引き延ばされる。足はバタ足を遂行しているというより、溺れた鎧騎士の自暴自棄な足掻きといった風だ。身体の勢いは凄絶なものと自覚しながら、実際に前に進んでいるという感覚はあまりない。結局は徒労だという諦めがある。
 特に耳朶に障る悲鳴を挙げるのは肩甲骨だった。大気圏を突入する隕石の速さで罅割れ、瓦解を遂げている。その隙間から細胞を破壊する断末魔が這いずり出て、そして加速する。それが誰のものなのか分からない。母親のものなのか、それとも恋人のものなのか。
 どこにも辿りつくことはない。身体は疲弊の一途を邁進する。その激しく泡立つ疲れを圧してコウは進み、進み続け、最後には糸が切れたように身体が動かなくなった。海の塩に浸かっていた顔が夜へと向き、皮膚が月光に晒される。そして世界に嘲笑されながら、コウの身体が液体金属の深奥へとズブズブ沈んでいく。
 だが死が海水よりも更に乾いた味だと知った瞬間、彼女の筋肉や骨が自然と、急激に動き始めた。動きは猛烈だ、だが先よりも更に猛烈であり"身体が言うことを聞かない"という感覚を絶対的に体現しているようだった。肉体は勝手に駆動する、精神は海と空のあわいに浮かびながらその姿を眺めている。コウは極に乖離していた。
 砂浜に到達した瞬間、その乖離が一気に、暴力的に解消される。精神が肉体へ引きこまれた一瞬の後、熱き地獄の苦しみが彼女を襲う。のたうちまわり、身体中が砂に侵食されていくうち、身体の芯にまで凍が広がる。コウは悶えながら、服を投げ捨てた場所まで這いずっていく。数兆の砂粒をも構わずに、そのまま服を身に着けた。
 そして遥かの、闇と月光の交錯点の麓に赤子の姿を見た。その朗らかな笑顔まで歴然と伺える、キャッキャと楽しげに笑っていた。だが聞こえてくるのは先、肩甲骨から聞こえてきた断末魔だった。
「私を見るな」
 コウは言った。
「笑うな、笑うな!」

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。