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コロナウイルス連作短編その94「クソみたいなこと言ってやがる」

 藤棚真嗣は自閉症スペクトラム障害を患っており、これが自分の生きづらさと苦痛の源であると信じている。大部分の健常人間との間には白濁した不気味な膜が広がっており、その不定形の蠢きが彼を翻弄する。この精神的な病は遺伝であると確信しているゆえに、自分をこの世界に産み落とした、既にくたばった父の藤棚帆士と漫画雑誌の編集者である母の藤棚入江を憎んでいる。代わりに同居している祖母の藤棚アカシアをその優しさに溺れるほど恋慕していた。74歳であるが未だに足腰も知性も昂然として輝いており、矍鑠という言葉がこれほど似合う老人を真嗣は知らない。彼女の髪は、遺伝子が暴走した朝顔さながら濃厚な紫を誇っている。行きつけの床屋の主人に、わざとここまで吐き気がするほど濃く染めさせているという。入江はそれを煩わしく思っているようだが、真嗣はその大胆さを愛す。
 アカシアは毎日、昆布茶を啜りながら相撲を見ることを習慣としている。ノートパソコンをテレビに繋げ、大画面でYoutubeにアップされた相撲を観戦しているのだ。時々は学校から帰ってきてから、アカシアの横で真嗣も相撲を見る。肉の凄まじい塊と肉の凄まじい塊がぶつかりあう様を、アカシアは心の底から楽しんでいるようだと真嗣はいつも嬉しくなる。こんな救われている時間を祖母が自分と共有してくれることを、神に感謝する。そしてアカシアは観戦中、いつも小さなノートに鉛筆で力士の絵を描いている。下手くそだった。線はふやけた手の皮のように弱々しく、濃淡の演出方も幼稚園児のそれだ。だが味がある、祖母の相撲への深い敬愛が込められたような親しみがある。真嗣はその絵が好きだった。
 いつからかは忘れたが、真嗣は祖母と実際に相撲を取っている。小さな頃から組み合い、そのたびに投げ飛ばされる。彼女に勝った覚えがない。それは真嗣が貧相であるということでなく、アカシアが強すぎるのだ。まず最初に自身の肉体と祖母の肉体がぶつかりあう瞬間、彼は衝撃的なまでの堅さを内部に感じる。その強靭な芯というべき代物は、明らかに老人離れしており、衝突直後は濃密な反発で真嗣の肩胛骨までもが震える。それでいて組み合った後、アカシアの動きは一転してしなやかで優雅だ。彼女は投げ飛ばそうとする真嗣の力を余裕を以て受け流していき、翻弄する。力士というよりも太極拳の達人だ。これが衰えゆく肉体を持つ老いし者の闘い方なのだろう、だがそれにしても極まっている。そして最後にはアカシアは真嗣を華麗に床へと叩き伏せる。真嗣がそれにどう対処しようと、それを乗り越え、投げ飛ばす。床に伸び疲労と恥ずかしさを感じながら、それ以上に祖母が元気でいてくれて嬉しいと泣きそうになる。
 この日も相撲で真嗣を豪快に負かした後、アカシアは息をつきながらシャワーを浴びにいく。これもまた彼女の習慣だ。10分が経ち勝者が凱旋すると、真嗣は彼女とラズベリーのタルトを食べる。入江が買ってきたものだ。美味しかった、祖母と食べると特に美味しかった。

 昔から他人というものが理解できなかったが、今は"分からないでもない"という状況だ。他人の理解できなさ、それゆえの空気の読めなさを真嗣は小さな頃から馬鹿にされ続け、小学校の途中で頭髪の一部が禿げた後、不登校となった。無為に家に引きこもる最中、物心つく前にくたばった父が遺した大量の蔵書に興味を持った。その殆どが小説であり、小説を読んだことはなかったが、10歳の真嗣は気まぐれに1冊を選んだ。『葉桜の季節に君を想うということ』を真嗣は読み、いつしかその読書は貪りに変わり、読み終わった頃には全てが変貌を遂げていた。彼はその日から狂ったように小説の鯨飲馬食を始めたが、それを繰り返すなかで気づいたのは、人間の感情の回路は学び取れるということだ。人間は予測不可能な存在と謳われながら、その行動や感情には法則、それこそ文法のようなものが存在する。小説はその文法書であると真嗣はいつしか気づいた。これらを読み分析を続ければ、自分に引きつけて共感するなどといった健常的境地に行かずとも、理解はできる、少なくとも理解しようという行為の苦痛が減る。真嗣は不登校中に読書を勤勉に続け、父の遺した本が無くなると図書館へ行き、片っ端から小説を読んだ。そして力を蓄えた真嗣は、学校という社会への帰還を果たした。

 昼休み、いつものように学校の図書館で借りてきた本、今回は野口冨士男の『かくてありけり/しあわせ』を読んでいた。
「ねえ、それ面白いの」
 突然、何者かが話しかけてきて驚く。それが野口山家だったので猶更に驚かされる。
「いや……いきなりだな」
 思わず真嗣は左の脇腹を掻く。
「それさ、母さんの本棚にあったの見たことあんだよね。野口ってあたしと名字が同じ。読むまで興味持ったとかはないんだけど、今偶然目に入って、何か、面白いんかなとか思って」
「……面白いとは思う。中年の主人公が自分の人生を振り返るってよくあるヤツだよ。文体もすごいシンプルで読みやすい。でも豊かだ。この本は河原に転がってる石ころみたいなんだよ、何かフラフラ歩いていて、ふとその石が何故だか気になって、それを拾ってみて裏側を見てみたら、人生ってやつをずっと生きてきた後にしかできない皺みたいに複雑な文様があって、すごく心打たれる」
 山家は目を丸くしながら、真嗣の顔を見る。理解ができない。
「何か、詩人みたいだね」
「それ褒めてんのか?」
「褒めてんに決まってんじゃん」
 彼女が笑うと、マスクに波濤が浮かぶ。
「この講談社文芸文庫って文庫なのにクソ高いぼったくり価格って有名だよね」
「……これは300近いページで900円だ。まあこれくらいは別に良いんじゃないか」
「そんならサーティワン・アイスでレギュラーダブル喰うのに金払うわなあ」
 山家の笑みが更に柔らかなものになる。

 野口山家はカリスマ性のある女だと、真嗣は思っている。彼女は中学2年の時にバイセクシャルであることを公言し、この学校で初めてのLGBTQサークルとも言うべき団体を創設した。性的少数者のための権利を主張し、その粘り腰の交渉態度から教師たちをも説き伏せ、様々な権利を新たに保証させてきた。理念に同意した仲間を引きつれ権利を勝ち取っていく様は、まるでアメリカの活動家みたいだと真嗣は常々思っていた。それでいて持ち前の溌溂さや人懐こさで皆から愛される存在としても際立っている。そんな彼女が自分のような"陰キャ"に話しかけてくるとは思わず、驚いたのだ。だがこの時から山家はよく彼に話しかけてきて、読んでいる本の感想を聞いてくる。そこから音楽やゲーム、ドラマやアニメにも話が及ぶ。例えば彼らはこんな話をする。
「ねえ、真嗣はadoとか聞いてる?」
「いや、お前聞いてんの」
「うん、つうか今一番好きな歌手だね」
「お前、そういう日本人の皆が聞いてる、大衆受けするって音楽とか一番嫌いそうだと思ったんだけど」
「良いもんはちゃんと良いってことだよ。まあ実際聞き始めたきっかけは『うっせえわ』じゃなくて、彼女が歌ってるタマホームのCMだけどね」
「最近すぎんだろ」
「んまあ良いじゃん。何かさ、自暴自棄の野太さっていうの、彼女の力強い歌声聞いてると明日も生きてやるって気分になる。特に『うっせえわ』と『踊』に、でも1番サイコーなのはタマホーム」
「へえ、俺は聞かねえけど」
「勝手にしてろ、ボケ。私が嫌いなのはさ、あれだよ。『大豆田とわ子と三人の元夫』とか、その主題歌歌ってるクソどもだよ。名前を言うのも躊躇われるクソども。アロマンティックやレズビアンが、ヘテロどもの自分語りのダシに使われるドラマに嬉々として参加する間抜け。こういうのが最新のドラマだ!とか言われる現状笑っちゃうね。ぶっちゃけここに参加してるやつら、昔から名前は知ってたのに何か胡散臭くて聞いてなかった訳だけど、あたしの直感は当たってたね」
 こういう会話もした。
「マジでさあ『チェンソーマン』のアニメ化楽しみだわ」
「へえ、俺は興味ないからほぼ読んでない。アニメも期待してないな」
「マジで言ってる? 何でよ」
「何て言うか、『チェンソーマン』がいけすかないのは、漫画が映画の下位互換、言ってみれば劣等種みたいに思ってるやつらのための漫画みたいだからだ。映画ネタが多いからとかだけじゃない、基本姿勢がそうなんだ。それでこの漫画は映画的で、だからすごいと認めてやるみたいな感じで、映画好きは上からの目線の承認を行う。そういうのをわざと狙ってる漫画だから、つまらない。一応読んだがこのまま読み進めても無駄だなって思って止めた。映像化したら更に映画への媚びへつらいになってつまんなくなるだろ」
「じゃあ、今面白い漫画なによ」
「『Thisコミュニケーション』と『百年と魔女』だな。終わったけど『メダリスト』と、新しいやつなら『古オタクの恋わずらい』と『嘘つきユリコの栄光』だな。将来性の塊」
「へえ、良く知ってんねえ」
 真嗣は、彼女とならいつまでも話を続けられると思った。

 母親である入江が家に帰ってきて、祖母が作った料理を食べた後に風呂へ向かおうとする。真嗣はその姿を後ろから眺め、ふと相撲のごとく彼女に突進する自分の姿が脳裏に浮かぶ。今もしこれを実際に行ったのなら、母親は激怒するだろうなと予想がつく。頬の神経的な痙攣、ザラザラした鼻息、上唇に突き立てられる前歯。彼はそれを思い浮かべながら、実際に母親へ後ろから突撃した。衝撃をまともに喰らった母親はバランスを崩し、地面に倒れずには済みながら、咄嗟に後ろを向いて真嗣を叱責する。予想通りで、嬉しかった。そしてその瞬間、山家の顔が頭に浮かび、自分でも驚く。

 何度も彼女と会話をし、時には帰り道を一緒に歩き、さらにゲームセンターに行ってはガンダムEXVSでタッグを組む。真嗣は常にクロスボーン・ガンダムX2改を使い、山家は常にドアンザクを使う。そのキャラはビームもサーベルも使わず、岩と拳で戦う通好みのキャラクターだが、彼女はからすまというゲーム実況者に影響され、意固地なまでにドアンザクを使っている。それなりに強い。
 そんな日々を続けているうち、真嗣は山家に恋をしたなと思う。部屋で試しに彼女のことを考えながらマスターベーションを行う。勃起し、射精し、大量の精液が出たので、恋をしているな、彼女とセックスがしたいなと思う。
 真嗣は山家に告白をしたが断られた。彼女は理路整然と、しかし彼に対する配慮をも忘れることなく、なぜ自分がこの告白を断るかについてを説明した。その最後の方で彼女は言った。
「結局、あたしには恋愛感情ってのが理解できないんだよね」
 "ああ、つまりはアロマンティックというやつか"と真嗣は思った。これについて説明する時だけ、あれほど明晰だった彼女の話しぶりや言葉が五里霧中といった感触を伴い、なるべく断言を避けている印象を真嗣に与える。真嗣は山家がアロマンティックであると断定した。そしてこれからも友達でいようと握手をして別れながら、家に帰ると怒りが湧いてきて、手を凄まじい勢いで洗浄する。

 部屋で、真嗣は相撲を見る。祖母に影響されて独りでもタブレットで相撲を見るようになっていた。観る度に驚かされるのは、彼らの巨体や剛力以上に、目覚ましいほどのその速さだ。あの巨大な肉塊といった姿からは遅さや鈍重さというイメージが先行しながら、その駆動は目にも止まらぬ速度を誇る。彼らの繰り広げる闘争とは、つまり瞬間瞬間の瞬くような判断の連なりと、その衝突である。特に彼らの腕の動きたるや、掴み、叩き、投げ、払い、その行動を残酷なほどに明晰な選択を行いながら、行使する。その様には思わず圧倒される。これは、目まぐるしい肉体の戦争なのだ。力士とは正に、速度の獣たちなのだ。相撲を見ている時、真嗣は人間肉体の動態というものの可能性を学んでいた。
 ふと"恋愛感情がってのが理解できない"という山家の言葉を思いだす。
 じゃあ、学べよ。俺だって健常者の考えることは全然分かんなかったけど、小説とか漫画読みまくって行動や感情のパターンを覚えることで、そこに順応していって、俺はここまでやってきたんだよ。俺が嫌いとか気に入らないとかじゃなく、恋愛感情が分からない? 分かんないなら学べよ、お前ちょっと自分を甘やかしすぎじゃないのか。
 真嗣は心のなかでそう吐き捨てる。

 彼は吉武瑛士という友人に告白の顛末を話した。
「お前、あんな女に告白したの? 勇気あんな」
 瑛士は色黒でかつ運動神経が相当のものゆえ、八村塁やケンブリッジ飛鳥らに準えて"黒人のハーフ"だとか"黒い英雄"と呼ばれていた。しかし彼は、あくまで自身の両親は"純ジャパ"だと公言している。瑛士は山家の悪口を言った後、最後に何か付け加えようとするが口ごもる。
「おい、何だよ、何でそこで黙るんだよ」
「いや、まあ別に」
「言えよ、それくらい、おいニガー」
 この前、彼から"おい真嗣、俺のこともニガーと呼べよ!"とメールで言ってきたのを想いだし、そう言った。瑛士は爆笑した。
「俺はゲイ……いや、ホモとかレズとかそういうやつらマジキモいと思うし、バイも何じゃそりゃ、ホモとレズの良いとこどりか?って感じなんだよ。で、今アイツがバイだって考えた時、そういうやつって男女とっかえひっかえして、セックスやりまくってんだろって思ったんだよ。でもこれさ、良く考えたら皆が思ってるいわゆる固定概念ってやつで、俺の差別心が平凡なもんだって思えて、何か呆れたんだよ。差別の仕方がダセえっていうのは一番ダセえわ。今の時代、もっと独創的な独自の理論で他人を差別してえよな」
 瑛士はそう言いながら、はにかむ。
「その意気だぜ、ニガー!」
 そして2人はハイファイブをする。
 
 夜、気まぐれにコンビニへ行き、ミントアイスを買う。チョコクッキーの間に、真っ青なミントクリームが挟みこんである最高のアイスだ。2つ買って、公園に向かう。いつも座っているベンチに腰を据えて、ミントアイスを喰らう。美味しかった。口のなかに爽やかな甘みが広がる。ミントアイスを嫌う者たちは歯磨き粉のような味がすると言って揶揄した気になるが、それこそを自分たちは愛している、そもそも歯磨き粉は美味しいものだ、そう真嗣は思っている。
 ミントアイスを喰らう最中、遠くからくぐもった奇妙な声が聞こえてくる。耳を澄ますと、それが喘ぎ声だと分かる。興味が湧いて辺りを密やかに彷徨うのだが、影で2人の女性がセックスをしているのを見つけた。しばらく見ていようと思うが、片方の女性が山家というのに気づいた。小さな林のようになっている場所に隠れ、草深い地面に寝転がり、相手の女性に自身のヴァギナを触らせながら、身体を震わせている。
 恋愛感情はないのに、セックスはすんのかよ。
 そう考えると怒りが湧いた。このままだと脳髄が炸裂すると予感した真嗣は好奇心を抑え、家に帰る。部屋に籠り違法配信されているエロ漫画を読みながら、マスターベーションを行おうとするが、主人公の少年がセックスをする前にコンドームを着けるという描写に、性欲が萎える。結果的にペニスの勃起も収まったので、彼は宿題でもやるかと考え直す。

 そんな山家に誘われ、近くのTOHOシネマズへ『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』を観に行くことになる。シネコンのコーラは高いゆえ、隣接するショッピングモールでコカコーラ700mlを買う。
「映画には500mlより700mlだよねえ」
 山家が言った。
 飲食物の勝手な持ち込みを償うため、フード・コンセッションでシネマイク・ポップコーンを買う。真嗣はごま油味を、山家はクレイジーソルト味を買った。映画館は通路が二手に分かれているが、彼らが行く側に備えつけられているトイレは改装中で、真嗣はふと"お前、バイの典型みたいなヤリマンなのか?"と聞きたくなったが、勿論そうは尋ねなかった。
 実際に『閃光のハサウェイ』を観ながら、モビルスーツの市街地戦の壮絶さや、Ξガンダムやペーネロペーの装飾過多が奇妙な滑らかさへと至ったような造形美に魅了されるも、実際一番印象に残ったのは主人公たちの関係性だった。テロリスト、軍人、謎の少女の三角関係。テロリストは少女と距離を取り、紡がれる感情を冷静に見極めようと試みながら、それでも彼女へ感覚的に惹かれていく自分を抑えられない。軍人は露骨なまでに少女を求め、テロリストに対して気軽に愛の闘争をふっかけながら、その実かなりシビアにその愛の行く末を見据えている。そして関係の中心にいる少女は本当に何を考えているか全く分からない、その純粋な自由さで以て2人を翻弄し続ける。豊かな関係性だと思った。
「いや、今回の映画、最高にダサかったね」
 観終わった後、開口一番に山家がそう言うので、真嗣は驚いた。
「まあ別にモビルスーツとかそういうのは良いよ、ぶっちゃけそれですら凡作の『機動戦士ガンダムNT』よりつまんないとは思ったけどね。でも最悪なのはクソみたいな恋愛描写。これでリアルとでも思ってんのかね。ああいう初対面からプライベートゾーンにズケズケ入ってくる女に性的幻想を抱いてる、間抜けな男特有のあの感じ、たまんないよね。気持ちりぃ。それでああいうリアリズムを履き違えた、下らない三角関係をダラダラ描いた挙句、あのエレベーターのシーンね。女性の胸の谷間に汗の滴がこぼれるってあの場面、今までリアル求めといて、そこでそういうのやんの?って呆れたわ。惨め、ホント惨め。最高の映画だったね」
 山家は軽蔑を以て、そう吐き捨てた。
「俺のこと誘っといて、それかよ」
 軽口を装いながら、実際は心臓が震えている。本当はもっと言ってやりたいことがある。だが彼にはそう言う勇気がない。

 家に帰ってから、真嗣は祖母と再び相撲対決をする。真っ先に肉体同士が衝突を果たした瞬間、あの凄まじい反発が彼を襲う。だが今回、ひるむことはない。むしろそれを身体の細胞全てで抑えこむように、アカシアを抱きこむ。
 俺だってな、日々学んでるんだよ。
 祖母が重心を敏く移ろわせようとするのを見越し、彼の方が重心を、彼女にとっての予想外を喚起する形でズラしていく。今度は真嗣こそが太極拳の達人、そして速度の獣になる番だった。勝負は意外なほどに早くついた。気づくと祖母が床に倒れており、その現実に一瞬怯みながら、唐突に喜びが吹きだしてきて、何故だか自身の左足の親指が床を叩きまくるのを感じながら、両腕を掲げる。
「勝った、やっと勝った!」
 腕を貸されて立った後、アカシアは孫の成長を慈しむかのようにハグをする。嬉しかった。
 祖母に称えられながら、強者の場たるシャワー室へ赴く。40℃を越える熱湯を激烈な勢いで浴びながら、それが勝利の美酒のように思えて心地よい。ペニスも勃起するが、これは全く性欲から来るものでは有り得ない。
 後にアカシアと一緒にレモンチーズタルトを食べる。北海道のチーズと瀬戸内産のレモンをふんだんに使ったタルトで、口のなかに夏の風が吹くような触感だ。美味しかった。
 途中で母親が帰ってくる。
「あっ、もう食べてる。どう、美味しいの」
 彼女が自分のタルトに手を伸ばしてくるので、急いでタルトを平らげて、母親の視界から消し去る。
「アンタには喰わせねえよ」
 真嗣はこの人間を憎んでいる。そしてこの憎悪のリストにもう1人加わった。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。