見出し画像

“はじめまして。わたしは誰ですか?”

 ひと風吹くごとに冷えてゆく、みぞれ降る一日。例年よりだいぶ遅れて、一冬の薪の運び込みを済ませた。薪小屋とは言え半分以上はヤギのアジトであり、言わずもがなまず順調には事が進まない。ネコグルマの進路妨害、薪の失敬、しつこく頭突き。ああ、楽しそうでなによりだ!
 そういえば今運んでいる薪は、一昨年の春に集めた物だ。そう、この子がうちに来たその時の事。そう気がついて、しばし感慨に浸った。色々と学ぶ事、気付く事が多かった気がする。
 最近になってヤギを飼いだした知人が、「もう、寂しがりで甘えん坊で」といった感じのことを言っていた。うちの子もそうだった。人影が見えるや声の限りに呼んで、近寄ればピッタリくっついて「だっこ〜」。もう一歳にもなるのに、全く子ヤギの様だった。
 ただ、こうした、我々が “子供の様” だと認識する様子は、多くが ”この世界での“  自分の関係性の理解の為の作業に直結していることを知っているだろうか? 要するに、原点的な話をすれば、“はじめまして、わたしは誰ですか?” と、言っているような感じなのだ。ヤギの場合、そこで構築された関係性は、多くの場合生涯にわたる。翻って、我々はどうだろうか?人間の寿命は、ヤギよりはるかに長く、人生にはより多くの、より顕著な階層が存在する。

 考えてみてほしい。ある老人が “子供じみた”  言動を見せたとする。多くの人は、「認知症だ」と言うだろう。たしかに、間違いではないかも知れない。だが、正確にはどうだろうか?
 人が人生の途中で、もし ”あの作業“  を、もう一度求められるとしたら、それは ”わたしは変わった“  と言う、直感的、体感的な訴求と、”世界は変わった“  と言う事実に挟まれた時だ。そう、今までの自分から変わってゆく日々の中で、ふと気づけば周りの世界まで変わっていたら? その人はもう一度問うのだ、「はじめまして、わたしは誰ですか?」と。

 実は同じことが、人生にはまだあると思うのだ。多くの人は、思春期にその問いを繰り返す。すでに幼少期に完成した関係性のなかで、揺らぎながら足場を求めて。
 思うに同じことが、更年期におきてもおかしくないのではないだろうか? 実質的な外界の変化があるとは限らない点で、先の場合より不完全だが、だからこそ燻っていやしないかと。認知症と言うファクターがないと、自分が変化しても、世界も、それらとの関係性も大勢に変化が無いと納得できる。だって大人だから。子供じみたマネなどできはしない。

 一度手に入れた関係性の中で、一生涯生き抜く種を見ていると、人生はいびつだと思わずにいられない。もっと人生の途中で言うべきなのだろうか、「はじめまして」と?
 せめて自分はこう言われても受け入れられるようでありたいけれど。
「はじめまして。わたしは誰ですか?」と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?