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木であるという事と

 不意に吹き出した風の寒い日、午後の森にて。新緑の隙間と移り気な春空を、怖ず怖ずと埋めてゆくのが見えるようだ。幾人か連れ立った我々は、その内の一本の大樹の“価値”の話をしていた。そう遠く無い昔、一面の採草地だった頃から小山の上にはその木があり、その名残か、今も渡り鳥たちの一里塚になっている。虫害を受け、衰弱が見える幹は、材木としては二束三文。とりわけて文化財としての価値も無い。近い将来、植物としての生涯を終え、静かに朽ちてゆくことだろう。見事に映る樹様からは裏腹に、残念ながら“価値の無い”木だという結論になった。そう、そもそも“木”になど、はなから価値など無い。だから今日、忘れがちな、“価値”の話をしたい。

 もとより、“木としてある”ことには無条件の価値がある。影をつくろうが、蔓延ろうが、枯れていようが、立っていようが倒れてしまおうが。その事の価値に、我々は異論を挟めない。ただそこにある現状こそが、価値であり、100であり、満である。ただ、その価値を手にはできない。形を変えても、イコールの等価を手にできるわけじゃないのは考えれば分かる事だ。無条件の価値には興味がないから、違う形で手にしようとしたものには元の価値は当然無く、それはむしろ“負債”であるのだから。つまり、我々が一度“価値を見ようとした” 木には、もう価値など無いのだ。
 この負債はもちろん木材の搬出に、工業製品や化石燃料や労力を投じなければならないからでもあるのだが、そもそもなにも林業に限った話ではなく、人間の仕事など大体“負債”を返す努力である。木を伐ろうと、漁をしようと、田畑を耕そうと月の裏側を耕そうとも、そんな事で望んだ価値は出てこない。引き受けた負債を返すために、人は“価値を見出す” という仕事をしないといけない。

 それでもなお、元の価値に比肩する仕事は限りなく少ない。そのレベルの奇跡の事を、人は「神のような仕事」と呼ぶのだろう。かようにその多くが負債を返せなくとも、その負債は誰も取り立てには来ない。天災をそれと見る輩がたまに湧くが、なんかのヒステリーだろう。負債とは言いようで、転じれば重荷であり、取り立てる類の話ではない。
 だから我々は忘れる。我々が見ているのは“グラフの下側” だということを。「価値を生み出した」「利益を上げた」というのは、大概ただの負債の返済の事なのだから。元の価値はいつもその上にある。なぜなら我々が元の価値を否定、ないし拒否したからで、もしも元の価値を認めた上で、その亡骸を手にしているというのなら、悲しい話に僕は聞こえるし、そんなもの売りには出せないだろう。

 僕にはあの木の価値をあえて拒否してまで、負債を返せるだけの価値を見出せないのだ。たとえ枯れるのが時間の問題だとしても。
 価値のグラフには、上と下がある。弱々しい芽吹きを見上げながら、そう思った。

 

 

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