【ネタバレ注意】ミッドサマーと女系社会と、その中でのみ通用する魔術

 アリ・アスター監督の映画、ミッドサマーが色々オカルトをうろうろしてきた人間には興味深く、普通にホラー映画としても出来が良く数年に一度の大興奮でたまらなくなってしまい、ぐだぐだと長文を書いていきます
ネタバレ120%なのと裸体に近い画像と残念ながらお下品な表現が頻発してしまうので未見の人は見ないでください。なおミッドサマーのレビュー自体が映画公開されてからもう4年経っているので、他の人が触れている所は飛ばし気味なレビューになっています。


開幕早々ゲスい発言してんなコイツ

 不穏なメールのやり取り後にいきなりセックスの事しか頭にない若者たち、年齢相応と言われればそれまでですがこんな環境では無理心中の傷が癒える訳もなく、ぼんやりと森のくまさんと女の子の画像を見てるだけの状態になってるようです。しかしこの画像、後の伏線かと思いきやミッドサマーは「森の王との結婚」や「男性原理と女性原理の結合」みたいな好まれがちなテーマからはかなり遠い作品なので、伏線というよりかはそういう物語をぼんやりと眺めて憧れたりはするけれども、別にその絵で心が癒されたりはしない彼女の現状を表している絵としての説明の方がしっくり来るんじゃないんでしょうか?

100年程前にスウェーデンの画家が描いたものらしい、森の王との結婚をイメージさせる良い絵だが


淫夢動画本編よりも意識の低い発言、これ劇場はともかくサブスクだと女性は見るの止めるんじゃないかと不安になる


 少し無理をし小粋に下品なジョークの飛び交うパーティ等を経て、スウェーデンのホルガ村手前で停車、そりゃあんな儀式を道路一本飛ばせば簡単に行ける所でやる訳にはいかないもんな、緊張をほぐす為か?ウェルカムドリンクに幻覚剤を皆で飲むも心が安定していない彼女は悪夢の中へ・・なんやかんやで村に入ると大祝祭の始まりを祝う女司祭の挨拶があります、彼女が事実上の村長みたいですね。
その後、髪を半分結んで半分解いた(大人と子供の中間の存在だからか?)状態で呼吸を意図的に強く行い気合を入れる女の子が出てきますがこれ、何度か作品中に「ハッホッ」と強く一度だけ呼吸するシーンが出て来るけれど気功やヨガのような、呼吸法あるいは身体技術の文化が(それに実用的な意味があるかどうかはまた別の話しとして)村に伝わっている事を示唆しているんでしょう、北欧のオカルト身体技法はあんまり聞いた事が無くせいぜいがルーン文字の形に沿って自分の体をくねらせてヨガるという、それは本当にルーン文字の時代から存在したのかよと言いたくなるようなルーンヨガなる物くらいである程度の文化が残っていれば色々な雑誌や本に流派ごと取り上げられる筈ですが他に見当たらない所を見るとアリ・アスター監督の創作でしょうか?

ハッホッとやっている所、息に魔術的あるいは霊的な意味を持たせる事自体は世界各地に散見されるので別におかしくも無い

 しかしこの彼女マヤさん、クリスチャンに好意を持った事そのものは本当だろうが今回の大祝祭中に相手を見つけるよう命令されており、その覚悟を決める為に呼吸法で気合を入れたような気配がある=偶然の恋に落ちた訳ではなく予め誰かに急接近する予定だった様に思えるのですが・・運よくタペストリーの通りに事が運んだのではなく、最初からそう行動するようしかもドギツい物も含めたおまじない=魔術を使って先例のように男を射止めるよう言い含められていたとしか思えません。


森の王でも神でもないので扱いも雑だし檻も広いとは言えない


男の髪が黒で、ポケット付きの服なのは村の外の人間を想定しているとしか思えないが

 過去のメイクイーン写真を残す事は許可されているらしくよく見るとカラー写真もあり、オースティン・パワーズを子供たちが観るとの事で現代の田舎に帰った親戚会みたいな具合になってきました、そりゃ村の中で18世紀くらいの技術のみ使って子供期を過ごしてたら、青年期に周囲から浮かびきった巡礼の旅に高確率で陥るだろうしそれじゃ新しい血も生贄の獲物もだまくらかして来れないだろうからガチガチに硬く造られたカルトという訳でもないらしい。

 寝る前に青年の家で夜泣きする赤ちゃんと、その子の安眠を願ってか枕の下にハサミを入れる女の子に

太陽への挨拶=スーリヤーナマスカールというヨガをほのかに思わせる朝の謎運動、アッテストゥパン前の儀礼かもしらんけど

どう見てもラジオ体操や筋トレとは別系統の動きをしていて、村の人々には心の根っこからオカルト的というか魔術的な物の考え方が染みついている事が表現されています、んでその極みとも言えるアッテストゥパンですが

引用すると「あの2人はホルガでの❛命の❜サイクルを終えた 彼らにとって大いな喜びなのよ そう 私の番が来たら私にも大いなる喜びよ 我々にとって命は❛輪❜ 再び巡る 飛び降りた女性の名はイルヴァ これから生まれる赤ん坊が その名を受け継ぐ」(男の方も受け継がれるとは言っていない・・これ結構重要か?)
後で詳細を詰めるので、ここではキリスト教のような考え方は絶対にありえず命は循環し続けるもの、血筋や母から娘へと繋がれる色々こそが重要であるという考え方と、それに惹かれ始めているダニーで次に移りたいと思います


つまり本が、書き綴られる事自体が重要でそれそのものは重要じゃない雰囲気造りのアイテムって事?



雰囲気作りの為に老人を病院へ入れればいいのに、姥捨て山だし家庭の身近な魔術もやれば、意図的な近親交配もそれによって作られたシャーマンによる歴史書作成もやるんすねえ・・

  ルビーラダーについて、ジョシュは霊的で実用的(魔法が使える魔法使いによる本、とでも言ったらいいのか)かあるいはそういう霊性を持って生まれた人間だけが描ける物かと勘違いをしているので、仮に産み出されたルビンが死んでしまったらそこで霊的な繋がりが断絶するじゃないか、そこで終わったらどうするんだという意味で質問をするのですが
そうじゃなく近親交配によって曇りの無い子が生まれるという返答自体、曇りが無いと誰かが認定した子に感情の赴くまま謎の絵を描かせているだけだというジョシュからするとズレた返答にしかなっていないと思うのですが、ホルガ村の霊的伝統()の立場としてはそれで良いみたいですね・・それは通常での霊的な繋がりとかを意味しないと思うんですけど


普通にこの辺りは綺麗で良い映像だと思います、すごく綺麗だしこんな綺麗な盆踊りに参加したかったぁ・・

 踊りの為の何処まで合法なのかはわからないが、大勢の女子でお茶を飲んで盆踊りの数倍は激しく潰し合う踊る女子、この辺りの感覚は日本人ならボン踊りで体感しているはずなので説明は要らないと思いますが、怪しい薬物と踊りの一体感を使った魔術ポイントをプラスするという事で・・

何年に生産されたカメラかは正直よく判らないのですが、村の輪を破壊しない程度には持ち込んで使う事を許された近代テクノロジーくんは全てを記録していた

そして、例のあのシーンである

髪型で、実際の母娘かは判らんけれどある程度の血縁を想像させる女性がヘルプ役をになっている
後ろからクリスチャンの尻を押す女性もなんとなくでマヤの祖母っぽい?かも
これこそがミッドサマーの一番表したかった場所ではないかってくらいに雰囲気があって「霊的で神々しい(実際に霊的というか、幻覚は体験可能だから一旦他所に置くとして現実の物理法則を超えた存在が出て来るシーンはこの映画に一切登場しない)」だと思うんだけど評判が悪い、当たり前か

 これマヤは痛みからか助けを求めて手を伸ばすけれど勘違いしてクリスチャンが掴んだ、それを自分の元に寄せてバックコーラスの流れる中、歌の力で痛みを和らげて?「怖がる事は無いし痛みも治まるわ、貴方も私の様に何時始まったかも定かでは無いし終わりの来ない、ホルガ村の血の流れを支える永遠の存在になれるのよ」と祝福しているように見えますが、この部分って熊が焼かれるラストよりこの映画のクライマックスじゃないんでしょうかね?
普段からスマホや、最新の農耕トラクター等の科学技術を使わず頼らず、赤ちゃんを泣き止ませる日常から恋の問題まで魔術を使って解決している(実際には解決していない所がミソ)ホルガ村の女性たちはアッテストゥパンの時に言ったように輪の中に生きている、輪の外にある文明の機器が実用性や楽しみで勝るのは事実だがそれは使えば使うほど受け継がれて来た輪にヒビを入れてしまうから可能な限り使おうとしないし、子を産んで血の流れを次の世代に繋げられた女性は輪の中のルールを守り従う限りは産まれなおしを繰り返して永遠に生きている女神兼祖霊のようなもので

神々しい光景だと思うんだけどなぁ

正にこのシーンのマヤの母?なんか「太古から続く母系制の血を受け継いで自分もバトンを渡し、次の世代が誕生する瞬間を言葉と歌の力で癒して導く人間よりも上のものになった瞬間だしそれは永遠の命を得た存在になるという、どれだけ言葉を尽くしても足らないくらいに神聖な瞬間」だと思うんですが・・同じような意見はほぼ絶無でした。バックコーラスを務める女性たちも恐らくは血を残す事に成功した女性=魔女であり女神なので新しい女神の誕生を祝福しているのですが、絵的に受け入れがたい物があるかもしれませんね・・おっぱいを出した普段着や正装をしてる、していた恰好やそれが子供を産み育てた夫人の特権だって文化は(近代ヨーロッパ的な常識では絶対に無理だが)探すとそんなに珍しくないんですけど、まあ下も出してるから

この辺り、監督は諸星大二郎が好きなのかな?という妄想は湧きますがマッドメン辺り英訳されているのか知らないので、なんとも言えません・・かなりこの映画に近い物があると思うんだけどなあ
なおマヤが終わった後に「感じるわ 赤ちゃんを」と言ってて誰もがそんなのまだわからんだろ、とか妊娠が確定する前にクリスチャンを殺してしまって良いのか?と思ったでしょうが、ホルガ村の人たちは観念の世界に生きているしそれを強固にする事に文字通り血道を上げているので、その場で赤ちゃんを感じると宣言する事によってマヤの上位存在への変身が確定したので、現実に妊娠しているかどうかは問題ではなさそうです。

赤い口紅と赤い服を許されて血を繋ぐ存在になったマヤ
諸星大二郎のマッドメン、超自然的な事がぼこぼこ起こる点はこの映画と違うけどテーマは近い?

 もちろん男の手が無いと労働も子作りもままならないので完全に奴隷扱いする訳にもいかないから、一応ピラミッドの下を占めては置かせてやるという扱いがこの画像で

本来は画像下側にいる裸の男の股間に大きなチムチムが描かれている

言ってしまえば働き手兼良い子にしてて印象が良かったら、次の世代に血を繋ぐ「お手伝い」はさせてもらえるという奴隷をマシにしたような、明らかに女性の下に男が置かれた存在なのでアッテストゥパンの時に足から落ちて自殺に失敗した元超絶イケメンの老人はそれに精いっぱいの抗議としてああなったんじゃないんでしょうか?
男性原理への攻撃っぷりも徹底していて、「オーディンが自分を槍で貫いてルーン文字を得たのだから男は死ね」と言わんばかりの北欧神話ってそんな話だったかと怪しくなる絵に、熊もまた


イヨマンテどころではない熊さん

邪悪な男性性の象徴として、焼き払われる儀式になっています・・オーディンもそうですが北欧神話が元とは思えないくらいにひたすら男らしさを圧迫して、女性を女神だし主人として扱うという僕らの現実社会とは逆転(上下逆になった世界のお話、ってモチーフはこの映画に時々登場してる)しているし皆で感情を共有しあい、辛い事を皆で声を出し感情も共有するような異様なカルトだけれども、そういう環境でしかダニーの受けた心の傷は癒されなかっただろうしそこで受け入れられた喜びになんとも言えないダニーの笑顔が全開になって、映画は終了します。

 ただし、9日間の祝祭はまだまだ続くのとダニーへの親切極まりない女王扱いは、熊を焼くときに村の男二名を(恐怖と痛みを止めるのにイチイを使うというのは、ガリア戦記にも出て来るヨーロッパで歴史のある死に方らしい、効き目の薄い自然由来の毒薬ではなく強力な鎮静剤にするべきだしクリスチャンのような状態にその気になれば出来たと思うのだが、意図的に弱い物を使って叫び声を上げさせたか?)

右端の女性が宥め役になって、右から二番目のイングマールかウルフの恋人か娘が大切な人を焼かれる悲しみに耐えられるようにしている?血を受け継ぐ赤い服着てる所もポイントかなあ

焼く時の絶叫で皆が悲しみの感情を共有して一体感に包まれたように、もっと大きなイベントのクライマックスというか
金枝篇に出て来る奴隷をお祭りの間だけ王様として扱い、その間本当の王様は隠れたり奴隷のフリをして祭りのクライマックスで王様のフリをした奴隷が儀礼的に処刑された後、本来の王様が若返りや復活のイメージを伴って元の地位に戻ってお祭りが終了する話を思い出します、あのお茶を飲みながらのダンスで女王を決めるというのが出来レースというか、優勝者こそ神に捧げられたという南米の球技をまた思い出す具合で村の人間がわざと敗北してたんじゃないか?これダニーはこの後本当に大丈夫なのか?

 まとめるとアリ・アスター監督が作った「現実に存在する技術だけを使って、魔法が生きているし女系性の神話が生きてる分男の扱いが悲惨な社会を作ってみたお話」になるんじゃないんでしょうか、神聖な儀礼の時にも相手を務める男の扱いが雑という訳にはいかないので、色々着せたり嗅がせたりさせては上げるけれど終わった後のあの扱いの適当さと真っ裸で頭のおかしい因習村に放り出されるあのとんでもない恐怖感で

全く人間扱いされずに違う儀礼の準備を進めていて怖すぎるし事実人権も無い

カルト村ホラーとして凄く良い出来の物にはなっているけれどよくあるオカルト映画であれば魔女が何か超自然な力を使いだしてああオカルトだうわーおっかねぇーみたいな描写ですがこれは違い、奇妙な呼吸法から始まり赤ちゃん宥めにルビー・ラダーとその製作者、アッテストゥパンの「輪」に踊りや精神的抵抗を抑える為のお茶やお香と、全て現実可能な技術で(おまじないに具体的な効き目が出ている描写は一切無い)ホルガ村の女系性、永遠に続く女神支配という「輪」を作ったらどうなるかという映画なんじゃないんでしょうか?一般的なイメージとして「魔女になりたい、おまじないを使ってみたいからなってみる」ですが、こちらはホルガ村という強固な輪を構成していく部分部分として女性による魔術やルビー・ラダー等で世界観を構築しており部分と全体が一体になってる女系性の大きな輪、その中の上位に位置出来る限り幸せでいられるが維持する為に働いてる男にはあんまり尊厳が無いし維持する為に連れてこられた余所者からすれば(基本この視点から映画は進む)人を喰って存在を維持してる、とんでもないカルト村でしかない、という映画に見えます。

輪の下側どころか外の男子はこうなる、カルト村大勝利ED

 最後に、この映画を元に現実のアレコレを語ろうとするとホルガ村はスマホも持ち込み禁止、家も食事も共同だし感情も共同という作られた前近代みたいな村なので、その点を踏まえて離さないとよくわからん方向に議論が吹き飛んで行きかねない気もしますが・・

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