弟子に準備が出来た時、師匠が現れるのか単なる支障かの1

 有名な「弟子に準備が出来た時、自ずから師匠は現れる」というお話の前に、偉大なるマスター本山博先生の本に載っていた弟子と師匠の一例を挙げてから話をしていきたいと思います。
 インドのどっかに居た師匠と弟子、この弟子あんまり頭が良くないけれども熱意はたっぷりあるタイプなので、みかねた師匠が通常と違う方法での修行を教えたとか、その内容は「お前の好きな物、牛が好きならひたすら牛を脳内で思い浮かべ続けろ」という、何か前に触れた気がしないでもない方法ですがともかく弟子は言われた通りに四六時中牛ちゃんを思い浮かべて暮らすうちに、脳内の牛が勝手に動き出すようになり挙句の果てには自分が牛だと思い込むようになったんだそうです・・魔境にしか見えませんけども、ここから先が耳慣れない話になり師匠が「喝」を与えると、その牛だと思っていた自分の意識、自分だと思っていた牛の意識、両方が消える事によりそういう物が消えて自分も消えるという経験をそのお弟子さんは体験できたんだそうな。
 じゃその後どうなったのかとか、それが体系的にどう修行の役に立つとか意味合いを要求されても僕はインド系に詳しくないんで残念ながら飛ばすとしても本山博先生はその後こうも言っています「師匠にそういう喝を行う力があったからそういう方法がとれたのであって、そういう事も出来ないのに牛ちゃんをひたすら思い浮かばせるとかわいそうな、鴨井がツノに引っかかって動けないから除けてくれと何もぶつかっても居ないのに要求したりモウモウモウと鳴いている、自分を牛だと思い込んでいる人間が生まれてしまうだけになる」と。こういう視点や修行法は昨今のスピだと聴かないだろうし、失敗したらどうなるかまでが具体的に書かれていたりで指導する力量の無い導師、導師でもグルでも師匠でもなんでも呼び方は良いんですがそういう悪クジ引いたらどうなるかの具体的な例としてとても面白い話じゃないんでしょうか?

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