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少しの贅沢をすること

めちゃめちゃ久しぶりながら需要があるかもわからない投稿になってしまいますが(笑)、今日は定休日で久しぶりにぼーっとする時間を作ったので、ちょっと考えたことをアウトプットしておこうと思い執筆いたします。よろしければご一読いただければ幸いですm(_ _)m

ちょっとした贅沢品を買った話

ここ最近、公私ともに色々あってばたばたしてまして、この一週間の睡眠時間がトータルで8〜9時間だったのですが、おかげさまで色々といい方向に向かったので、ちょっとした贅沢品を買って自分にご褒美を与えようと思ったんです。ただ今日はここ十勝は特に暑く、夏バテしかけていたので、安易にケーキとか甘いものを摂取したらグダってしまうと思いまして。でも良いところで外食しようにも、美容室で髪を整える予定だったのであまり大金を使うこともできず、そもそも物欲が強いタイプでもないので物を買う気も起こらず…

と、悩んだ末に、いつも野菜を買いに行く近所の「とかちむら」というところで、いい値段の鶏卵を購入しました。いい値段と言っても、某有名YouTuberが動画で使うような10個で5,000円みたいなものではなく、6個で310円みたいな、いつも10個200円そこそこで買っているような私にとってはいい値段、というものですが。まぁ普段は冷蔵コーナーでチラ見しても手に取ることはない商品なので、個人的には「えいやっ」という感じでレジまで持っていきました(笑)

ここで、なぜいい値段の鶏卵を「ちょっとした贅沢品」に選んだかといいますと、そもそも私は昔から卵アレルギーだという背景があるからです。幼い頃はかなりひどく、今でも生の状態の鶏卵を食べると体調によってはアレルギー反応が起こります(大学時代にプリンを食べて二日間体調が良くなかったこともありました)。魚卵に関しては火が通っていても無理なんです。
だから私は鶏卵を食べるとしても、茹でるなり焼くなりしないとダメなんですよね。でも、多分ですけど、いい鶏卵って生でこそ真価を発揮するじゃないですか?もちろん調理済みでも差はあるでしょうが、もっとも価値を堪能できるのは生だと思うんですよね。その、本来の価値が享受できないと分かっていながら、それでも「ちょっとした贅沢品」に鶏卵を選ぶという、その行為が既に贅沢だと思えて、最終的に選んだんです。

贅沢をする、ということ

「贅沢」という言葉の意味を調べると、「実際に必要とする以上の、過ぎた消費」という旨の説明が出てきます。なるほど、確かに私が鶏卵を使う場合は家庭料理の範囲で、レストランで人様からお金を頂戴して提供するわけではないので、スーパーで安売りされているもので十分ですから、今回購入した鶏卵は(少なくとも私にとっては)贅沢と言えるでしょう。さらに結果として、卵焼きをつくって食べて「いつもよりちょっと美味しい」程度の差しか享受できなかったので、いよいよ「実際に必要とする以上の」鶏卵でした。

余談ですが、私はコーヒー屋という仕事柄上、化学調味料や刺激物は基本的に断って生活しているため、そういった混ざり物のない(多少割高な)食材を使用しております。これは「実際に必要とする」範囲ですので、私にとっては贅沢ではないのですが、「ディスカウントショップでもっと安いの売っているよ」と添加物満載の大量生産形食材を薦められて断る度に「贅沢」だと揶揄されます。これが結構ショックだったりします(笑)

贅沢=幸せ か?

ともあれ、今回の鶏卵は明らかに「贅沢」でした。これは事実だと思います。しかし、そこで思ったのが、贅沢=幸せ、ではないということです。

例えば、私は普段豆から挽いてハンドドリップしたコーヒーを飲みます。業務上の品質管理を除いても、多ければ1日5杯淹れて飲みます。この、豆から淹れるコーヒーを1日5杯って、おそらく多くの方からみれば「贅沢」なんですよね。でも私にとっては、コーヒーは集中力を高め気力を増すために必要な飲み物で、また鮮度が劣化し放題のコーヒーを1日何杯も飲んでいたら味覚が狂うので、「実際に必要とする」範囲なので、贅沢ではないんです。

加えて、単純に美味しいということもあり、私にとってはそれが幸せなんですよね。分かりやすく換言すれば、贅沢な鶏卵を食するよりも、日常的にコーヒーを飲むことのほうが、私にとっては幸せだったんです。

これは中々にショックというか、衝撃的な出来事ではあったんですよね。私は常日頃から「贅沢はたまにするからこそ幸せ」ということを考えて生きているのですが、そんなたまの贅沢すらも、日常のコーヒーに(幸福度の観点では)勝てなかったんです。もちろん、今回の鶏卵はとても美味しかったんですよ。それも事実なのですが、その贅沢によって幸せだったかといえば、日常のコーヒーのほうがより幸せを感じているなぁと思えたんです。

本当の幸せとは

これはかなり月並みな結論になってしまうのですが、本当の幸せとは日常に潜んでいるものなんだなぁと思った次第でした。もちろん、大きな幸せを望んで、夢に向かって精進することは非常に大切ですし、素敵なことです。ですが、憧れている幸せを夢みるあまり、今の日常に潜んでいる幸せを見落とすのは、非常にもったいないと思うんですよね。

有名な幸福論についての小話があります。
ある時、ヤシの木の下で一日中寝ている男がいました。それを見つけたサラリーマンが、「そんなところで怠けていないで、働いたらどうだ」と叱責しました。目覚めた男が「働いてどうするのだ」と聞き返すと、サラリーマンは「そりゃ働けばお金が稼げる」と答えました。さらに男が「お金を稼いでどうするのだ」と聞いたので、サラリーマンは「稼いだ金を投資すれば、さらに大金が手に入る」と答えました。またまた男が「大金を稼いでどうするのだ」と聞いたので、「南の島に別荘を買って、ヤシの木の下で昼寝でもするかな」とサラリーマンは答えました。
もうお分かりですよね。これに対して男は「俺はもうずっと前から、ヤシの木の下で寝ている」と言ったんです。もちろん、労働しないことが是というわけではありませんが、日常にある幸せを十分に噛み締めている男と、大きな夢を見て(しかも結構実現性の低い)幸せを求めるサラリーマン、どちらが幸せか、火をみるより明らかです。

振り返ってみれば、日常にはいくらでも幸せが潜んでいます。しかもご丁寧に、潜んでいるというにはあまりにも恥ずかしいレベルで、目を開けばすぐに気がつくところにあったりします。重要なのは、そんな幸せを享受するだけの姿勢が自分自身にあるかどうかではないでしょうか。

みなさんも、まずは目の前の一杯のコーヒーに、いつもより想いを馳せてみてくださいね。きっと、小さいながらも確実にある幸せに、気がつくことができるでしょうから。

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