見出し画像

さて、お茶の話をしよう。

先日、私が習っている茶道の流派の講習会に参加した。

講習会の具体的な内容は、お家元から来てくださる宗匠が、その回で設定されたテーマについて講話をし、また決められた題目のお点前が舞台上で行われ、宗匠が来場者たちの前で稽古をつける。

その日宗匠が話されていたことを思い出す。

「習うより慣れろ、それはもっともだが
知識から茶の世界を深めていくことも大切だ」

確かに、茶道史やお道具のことなど、こと私の茶の知識と言えるものは浅い。
体系的に知識を身につけようとしたこともあったけれど、記憶の引き出しにはあまり残っていない。

私が今やっているお茶は、500年以上も前に千利休が道を拓き、そして後に続いた人々が少しずつ形を変えながら、ただし根幹は変えることなく、繋いできた。

不易流行。

その思いを継いで現代でお茶を続けるからには、千利休が、そしてこれまでを繋いできた歴代の家元たちが、お茶とどのように向き合ったのか、知識を求めていくことは大切だなと、しみじみ思う。(言うは易し)



こんなことを考えていると、思い出すことがある。

部活で15歳の時に茶道を始めてから、早くも8年が経ったが、習い立ての頃に先生に言われたことは今でも忘れない。

先生の仰ったことを忘れないように書き記そうと、私はメモとペンを持って先生の話を聞こうとした。すると先生がペンを握りしめた私の手元に目をやり、そしてまっすぐ私の見つめ直して言った。

「それは家に帰ってからにしなさい」

なぜだろうと思った。 

「お茶は手順を学んで覚えて、それで終わりじゃない。それに、どうしたって忘れるのだから、お稽古をするたびに思い出せば良いのよ」
(この通りでないと思いますが大意です、先生、すみません)

そうは言っても、私はしっかり自分のものにしたかった。何度も同じ誤りを繰り返すことに、何の意味があるのかわからなかった。

最初は。

雪!

ある寒い冬の日の稽古のことだった。

いつものように一緒に稽古を受ける友人を客に、お茶を点てていた。
茶碗を温めて茶杓を手に握ると、「ひとさじ半」という抹茶の定量が頭に浮かぶ。

「今日は寒いんだから、大服でね」

茶碗に抹茶を入れようとする手が止まり、頭の先でした声の方へ顔をあげると、先生が穏やかに 微笑んでいた。

今日は寒いから、あたたかいお茶を多めに入れる、、それはとても、とても自然なことだった。

目の前にあるこの一碗の茶の先にいる相手が、今、どんなお茶を飲みたいのか。

私は、それまで自分が自分のためにお茶を点てていたことに気づいた。

手順に忠実に、正確に、丁寧に、美しく。
だが、それでできたお茶が美味しくなければ、
誰のためためのお茶だろう。

このお茶が、自分が点前をする空間が、誰のためにあるのか。 

全てが客のためであるというわけでもないだろう。亭主と客、その二者の関係性が意識されるからこそそこにお茶が生きる。

お茶は、手順と決まりが細かに決められた何とも複雑で、そして高尚なものに見えやすい。確かに、稽古を積めば積むほど、その複雑さに直面するようだ。

ただ、茶の心とは、遠い昔から継がれてきた思いに立ち返って、目の前のお茶を通して真心を込めることに尽きると思うのだ。

時にそれは、手順から逸れるかもしれないし、普段通りではないかもしれない。

けれど、その柔軟さ、しなやかさを抱いてお茶に臨む人になりたいと、いつからか思うようになった。

そして、つまるところはそれが私がお茶を好きである所以なのだ。

留学の時に開催した茶道ワークショップ、懐かしい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?