見出し画像

好きなものを好きでいること


①運転

イギリスへ2年間移住する後輩を見送りに、成田空港までレンタカーで行った。
後輩と、私と、友人2人。全員で4人。
内、運転できるのは渡航する彼と私だけ。

成田空港に着き、第2ターミナルでゲートを探す。
しかし、なぜか経由地であるベトナム行きの飛行機が存在しない。
infoに相談して気づく。
彼の便は、成田空港ではなく、羽田空港だった。

タイムリミットまで1時間半を切っている。
成田から羽田まで、首都高を使えば1時間ちょい。
1分1秒を争う状況に、常に堂々としている彼が、今まで見たことないほどに焦っていた。
運転できる人は、私だけになった。


人生初の首都高を常に右レーン110km以上でかっ飛ばす。肝を据え、腹を括り、脳みそもタイヤもフルスロットル。絶対にルートも間違えてはいけない。


途中大型トラックに煽られたが、トラックのあんちゃんより怖いのは、後輩がイギリスに飛べるか否かの命運と、我々いまこの瞬間の命である。それが人よりも物理的に細い私の腕にかかっているんだ。動揺できる隙間があるわけない。勝手に煽っとけ、私は前以外には動かぬ。


私がトーキョーハイウェイの命懸けタイムアタックに挑んでいる中、気づけば友人の1人は後部座席で眠っていた。
よくこんな状況で寝れるなと内心驚く。彼女曰く「運転が頼もしすぎた」せいらしい。

結果、本当にタッチの差で後輩はギリギリ間に合った。
心からの安堵と弛緩はこの24年間で感じたことのない味わいだった。



②イタリア語

私は、なぜかイタリア語を話せる。

経緯をざっくり書くと、2年前に留学をしなければならなくなって、何となくノリでイタリアを選び、イタリア語がひとつも分からない状態で渡航し、語学学校に通いながら10ヶ月住んでいたから。

だが、なぜイタリア語を学んだのか聞かれると、当時生きていくために必須だったからであり、今なぜイタリア語を話せるのか聞かれると、過去の遺産でしかない。
今後イタリア語を活かして仕事をするつもりもない、というかそんなレベルまで到達していない。
ただ、イタリア人の友人と今後も友人でいたいから、そしてイタリア語の音が好きだから、ギリギリ忘れない程度にDuolingoをやっているだけだ。現在95日継続中。


前置きが長くなった。

昨日、旅行で訪れていた出雲から岡山へ高速道路で向かっている際に、休憩がてら鳥取の大仙というちいさなPAに立ち寄った。
お手洗いに行こうとすると、斜め左後ろから「すみません、乗せてくれませんか?」と、控えめに声をかけられた。
振り返ると、しゃがんでいる男性がスマホのGoogle翻訳の画面をこちらに向けている。
画面をみると、翻訳元の言語がイタリア語だった。
驚いた私は”Sei italiano(イタリア人ですか)?”と尋ねると、彼も驚いて Si と答えた。
こんなところで、ヒッチハイク中のイタリア人に遭遇するとは。
名古屋に行くという彼を乗せて、私たちは岡山駅へ向かった。

車内で私と彼はイタリア語で会話した。
意外と話せた。
お互いの国の好きなところとか、好きな映画とか、YouTuberとか、どうでもいい話を永遠としていた。
楽しかったし、彼の旅に花を添えられたし、よかった。
ただシンプルに、出会いの不思議さと面白さを噛み締めた。



好きなものを好きでやっている時、それを好きだと感じる以外に理由はない。そこには利己しかない。

私は車の運転が好きだ。地元が車社会なのもあって、自分でバイトしたお金で中古のラパンを買った。
地元に帰ると、必ずラパンとともに出かける。

イタリア語も、スキルとして活かそうとは思ってない。
なんとなく嫌いじゃないから、続けているだけ。
ちなみに英語も同じ。
好奇心旺盛だから、色んなものに興味を持っているうちに、気づいたらなんちゃってトリリンガルになっていた。言語はツールに過ぎないと思っているから、どっちも日常会話レベルだけど。

既述の通り、利己しかない。
それが偶然、誰かのためになる瞬間がある。

私はよく、利己ー利他の二元論のはざまでがんじがらめになって身動きが取れなくなるときがある。
言いたいことは言えない。書きたいことも書けない。
エゴで誰かを傷つけたくないから。傷つけるのが恐いから。結果傷つくのは自分だから。

そして好きなものに対しても、それを好きだと言う自信がない。
車のことはよく分からないし、言語にしたって上には上がいる。好きなアーティストだって、彼らの作品やパーソナリティをたくさん知っている訳ではない。何においても、中途半端でニワカである。

それでも、好きなものを自分の内側で愛でていることで、急に開花するときがある。
好きなものを好きでいることは、庭に種を蒔くようなことなのかもしれない。

種を蒔く。なんとなく水をやる。でも無理やり咲かせはしない。
思い出した時に肥料を与えてみる。
たまに条件が揃った時に、花開くことがある。
それでいい。どんな花かすら、分からなくていい。
利己も、利他も、自信も、「好きなものを好きでいること」に必要条件ではない。

花束を受け取ってくれる人に、そっと手向られたらそれは素敵なこと。
自分好みのガーデンでひとり遊ぶ、それもまた素敵なこと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?