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-小説- うたたねのこぼれ種 【1.ゆず】


窓の外から、あいさつ、笑い声、名前を呼ぶ声、様々な声色が混ざり合って聞こえてくる。下校する声の波が、大きくなったり小さくなったりしながら、次第に遠く引いていく。僕は、その波の中にいるよりも、離れたところで聞いている方が好きだ。

ピアノの鍵盤の上で指が遊ぶ。指を跳ね返す鍵盤の感覚が心地いい。このピアノは、いつもにぎやかな声を聞いているからか、音がはっきりとしていて元気なピアノだなと思う。

放課後の音楽室に、ピアノの音と会話がぽつぽつと浮かんでは消えていく。合唱コンクールの伴奏の練習をして以来、使っていなければここにいても何も言われない。友達の砂原晃(すなはら あきら)と音楽室でしばらく時間を過ごしてから帰るのが定番になった。お互いに、話していてもピアノを弾いているし、弾いていても話している。声とピアノで話しているようでもあるし、歌の伴奏をしているようでもある。時には、黙って話を聞いたり、ピアノを聞いたりすることもある。

僕がピアノから顔を上げると、淡い光の中で、砂原が机に伏せて眠っていた。さっきまで彼のTシャツ問題について喋り続けていたのが噓のように、静けさに包まれていた。

「なぁ、シン。俺のTシャツ英語問題あるでしょ」
「うん、よく言ってるね」
砂原曰く、どうやらTシャツに書いてある英語を読んでしまって、どうしても意味が気になってしまうらしい。
「この前、服を買いに行って、ロゴTシャツとかかっこいいと思うんだけど、例によって英単語の意味を考えると買えなくてさ。他の人が着てるのはかまわないけど、自分が着るとなるとそうもいかない。WORLDWIDEとかFREEDOMとかUNIVERSITYとか。俺はそのメッセージを背負えるのか。フランス語とかドイツ語とか、俺が知らない言葉にするのも、逃げてる感じがするし。ブランドのロゴTにしようかと思うけど、そのロゴを抱えられるほどの人物なのか。俺はもうどうしたらいいんだって、何も買えずに頭抱えて歩いてたら、おじさんとすれ違ってさ。そのおじさんの着てるTシャツが、いい感じの厚みで、白すぎない白色で、パッと見ていいTシャツだったんだよ。これはもういっそ無地だなと思って、振り返ってもう一回おじさん見たの。そしたらTシャツの背中にでっかく漢字で『夢』って書いてあったのよ。それはもう見事に背負ってた。俺はもうひれ伏したね。美しさを感じたよ」
砂原は一気に喋った。顔から体から、全身を使って生き生きと喋るから、砂原が喋っているということだけでおもしろい。
「降参だったんだ。で、何か買ったの?」
「それから店に戻って、とうとう見つけたんだよ。『delicious water』って書いてあるTシャツを。俺が掲げたいメッセージそのものじゃない? 水は世界一うまい。それがまた、これは湧き水だなって感じのすーっとしみこむような文字なんだよな。何も知らないような純粋な顔をしながら、ものすごく長い時を経て何もかも知ってるみたいな感じなんだ」

砂原は「好きな飲み物は水だ」と言っていて、「砂原って苗字は、砂漠をイメージさせるし、サハラとも読むから、俺は水に執着があるのかもしれない」と語るのを僕は何回も聞いた。

強い風が吹いて、カーテンをふわりと遊ばせる。机の上に置いてあるペットボトルがパタンと倒れた。砂原は毎日、学校に二リットルのペットボトルの水を持ってきている。寝顔のそばで、残りわずかな水がゆらゆらと波打っている。キャップが閉まっていてよかった。カーテンに合わせて、光と影も同じリズムで揺れている。すぐにでも消えてしまいそうな美しい景色だった。
風が僕の背中を押している。寝息の邪魔をしないように、僕は静かに鍵盤に触れる。指からこぼれる音を紡いでいく。つなげてつなげて形にしたい。できたメロディを繰り返して繰り返して、丁寧に一目一目編み上げる。うたたねをふわりと包む布を織るように。この時間が消えないように。
いい曲ができるかもしれない。
タイトルは、『utatane』にしよう。
砂原が目を覚ましても、この曲のことは内緒にしておこう。これは君の曲だよ、なんて、そんなのキザで恥ずかしくてたまらない。僕の中に閉じ込めておこう。そう思った。


   *


家に帰ろうと下駄箱に向かうと、私の靴だけがずぶ濡れだった。あれ、今日は雨だったっけ。わざととぼけた問いを頭に浮かべてみる。靴を手に持つと、ぼたぼたと水が落ちた。下駄箱の中には水たまりができている。たまらなく気持ちが悪いけど、靴に足を突っ込んで、顔色を変えないように表情を固くして足早に外へ出る。
どこかで見て笑っていればいい。
そんな捨て台詞を吐くように、自転車に乗って学校を飛び出した。

学校から遠く離れた橋の上で自転車を止めた。
濡れた靴は大嫌いだ。大雨の中、自分一人だけが傘を差さずに歩いているようで、心細い気持ちになる。いっそ雨が降ればいいのに。
父の仕事の都合で、私はこの町に引っ越してきた。転校を望んだわけではないけれど、くよくよしても仕方がないし、制服も靴も新調できることを喜ぼうと思っていた。新しい白いスニーカーは、内側がボルドー色で、制服のスカートの色に合わせて選んだのだ。それなのに、早速この有り様だ。白もボルドーもくすんで、薄汚れてくったりとしている。

うっすらと聞こえてきた会話の断片によると、私の着けているマフラーが、リーダー的な女子のマフラーのショップと被っているのが気に入らなかったらしい。そのショップの商品は、その女子以外は持ってはいけないという暗黙の了解がある様子だった。
その女子しか持てないなんて、そんな馬鹿な話があるか。知ったことではない。反論する気にもならない。どうだっていい。くだらない。
頭の中でわめく自分の声が響いてうるさい。ぐっと体に力を入れても、次から次へと湧いてきて止められない。
こうしていても、靴が乾く訳でもない。靴を脱いで、橋の下をのぞくと、川が静かに流れていた。夕方の光を溶かした川はきらめいて、にくいほどにきれいだった。濡れた靴下で立つアスファルトは、容赦なく全身を冷やした。固まって動けなくなってしまいそうだった。車道を通る車が、足元を揺らした。
私は泣かない。
自分の中の声にそう言わせる。
靴を自転車のカゴに放り入れると鈍い音がした。ペダルがざらざらと足の裏を刺すのも構わずに、私はまた自転車を走らせる。


   *


俺だって、一人でたそがれたい時もある。
友達とひと騒ぎして別れた後、自分を落ち着かせるように川辺で時間をつぶす。考え事をしているかのような顔を作っているが、別に悩んだりしているわけではない。それでも、いつも川はなぐさめてくれるような気がするから不思議だ。

河川敷で野球をしている子たちを脳内コーチしながら、ボールが来たら投げ返そうと考えるが、ここまで飛んでくることはない。散歩する犬のしっぽに手を振って、よしよしする代わりに草をなでたりしている。子供たちはボールに夢中だし、川は流れ、犬はかわいく、手元の草は草でしかない。

そうこうしていると、白い自転車が走ってくる。しゃれたカゴがついているから遠くからでもよくわかる。別に待っているわけではないけど、俺がここでたそがれていると後ろを通りすぎていく。隣町の学校のあの子は、いつもイヤホンをしている。何を聞いてるんだろうと、息を止めて耳をすましてみる。カラカラと車輪の立てるいい音だけが聞こえる。きっと都会的なかっこいい音楽を聴いているに違いない。それがどんな音楽なのかはわからないけど。
いつも背筋がピンとしていて、揺らがないあの子。風になびく髪だけが自由奔放に見えて、余計に印象に残る。後ろを通りすぎる時、こっそり顔を見ると、まっすぐ前を見つめる目が、一瞬こっちを見た気がした。
気のせいかもしれないけど、目が合ったかもしれない。


   *


大きな喋り声のかたまりがふくらんで、歩道の端を縮こまって歩く私を追い越していく。

一人の帰り道を、イヤホンと一緒に歩く。他人が私を一人にするんじゃなくて、私が一人を選んだんだ。誰にも聞かれていないのに、そう自分に言い聞かせている。イヤホンをしているけど、そこには何の音も流れていない。聞きたい音楽が見つからない時は何も聞かない。こういうのって、エアイヤホンとでも言うのかな。一人の時間を楽しむ自分を演出するのにイヤホンは欠かせない。誰も見てはいないけど。

一人は自由で、一人は楽しい。誰かに歩幅を合わせなくていい。

うつむいて歩く視界の中に、突然、黄色の丸が飛び込んできた。徐々にピントが合ってくると、小さなゆずが一つ、歩道に落ちているのだとわかった。視線を上に向けると、塀の向こうの木に、ゆずがざらんざらんとなっているのが見えた。あそこから、一つだけ、はぐれてしまったんだ。どこかさみしそうに見えた。
ゆずをじっと見つめながら、歩くスピードをわずかに落とす。ざらざらした黒いアスファルトに、ぼこぼこした質感の鮮やかな黄色が映えている。ゆずを手に取って匂いを嗅ぎたい衝動に駆られる。さわやかな匂いがするのだろうか、それとも何の匂いもしないのだろうか。けれど、誰が見ているかわからないからぐっとこらえて、心の中で手を振ってすれ違った。ゆずはこちらを見ることなく、ただ空を見上げていた。ただそこにあるだけ。一つのゆずにどこか強さを感じた。
私もまねして見上げてみると、空一面に雲がかかっていた。まばたきをするたび、灰色の空の中に、ゆずの黄色がチカチカとまぶしく灯った。


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