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連載:私たちはソクラテスの命日をどこまで知ることが出来るのか?第2回

2.1 アテナイとデロスの暦
 前回,ソクラテスの刑死の日はデロスのヒエロス月であり,それはアテナイのアンテステリオン月であり,現在の暦では何月になるのか?ということで話は終わりました.
 今週は暦の調査のために2つの本を新たに入手しました.

Robert Hannah, Greek and Roman Calendars(2005)
Jon D. Mikalson, The Sacred and Civil Calendar of the Athenian Year (1976)
1冊目は古代ギリシャの暦を知るには非常に有効です.本稿はほとんどといっていいほどにこの本の恩恵を受けています.2冊目は,日めくりカレンダーのごとく,アテナイの354日ある年間イベントをきちんと出典付で網羅した本です.関心のある方は持っておいて損はないですが,翻訳なしでギリシャ語を引用しているのは,非常に不親切です.

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   ではこれらの本の助けを借りて調べてみようと思います.

 アテナイの新年は夏至の後の新月(夏至より早く開始することもあります)から始まるのですが,全てのポリス(都市国家)においてそうだったわけではないようなのです.プルタルコスが次のようなことを言っています.

プルタルコス『ペロピダス伝(英雄伝)』24(柳沼重剛 訳)
 しかしそのとき、すでに真冬日近くで、その年の最後の月も下弦となって、あとわずかな日数を残すばかりになっていて、やがて新しく第一月が始まれば、ただちに、だれか別の者がこの役職を引き継ぐはずで、それをそうさせなかった場合には、死刑を申しつけられることになっていた。

 なるほど,冬至(もしくは真冬日)を新年の起点としているポリスもあったわけですね.むしろその方が現代の感覚には近いものがあります.そしてデロスの暦はまさに冬至を起点としているようなのです.これは困りました.というのは,デロスは圧倒的なアテナイの影響下にあったとはいえ,アテナイと同じタイミングで閏月を挿入していたとは限らないからです.アテナイとデロスの暦を完全に同期させることは現存する史料では難しいのかもしれません.

 さて閏月の話になりましたので,ここでお詫びと訂正があります.

 拙note「プラトンの誕生日を知るということ」ではアテナイでは前433/432年以降,メトン周期を用いており,19年に7回の閏月を挿入していたと紹介しましたが,これは完全に誤りでした.ただし閏月の意味については参考になりますので,未読の方はお読みください.

プラトンの誕生日を知るということ-天文学と文献から-

2.2 古代の歴史家のいうことも鵜呑みには出来ない.

  まず間違えた言い訳をさせてください.前1世紀の歴史書に次のような記述があるのです.

シチリアのディオドロス『歴史叢書』第12巻36(試訳)
またアテナイでは,まずパウサニアスの息子であり,また天文学者として評判であったメトンが19年周期とよばれるものを公開し,その開始をアテナイのスキロフォリオン月の13日目とした.この「大年(※)」という周期に従い,この年数により星々は元の場所に戻ると認められている.それゆえに,それはメトン周期とも名付けられている.またこの人が考案した予測と公表は驚嘆すべきことであると認められる.というのは,星々は〔メトンの予測通りに〕動き,調和した目印を描くことにより作られるから.それゆえに,われわれの時代に至るまで,19年周期を用いている多くのギリシャ人は,真実を欺かれることがない. (※)大年という語の意味には幅があるのですが,太陽と月などの天体の配置が元通り(回帰)になるのにかかる時間のことと思われます.プラトン『ティマイオス』39C~E も参考にしてみてください.

 ディオドロスはキケロの時代の人なのですが,この記述を信用すれば,メトンの提唱した19年周期がずっと使用されていたと考えたくなります.ですが事情は違ったようです.天文学的に正確な理論でも,ポリスの暦として採用されるには,広く合意が必要なわけです.ディオドロスには尊敬されている天文学者メトンですが,同時代のアリストファネスの喜劇『鳥』では,天空を計測しようとする変人として扱われており,結局殴られ,「オイモイ!(悲鳴)」と叫び惨めに退場します.同時代人にはさほど(というより全く)尊敬されてはいませんでした.ここには史料の信頼性というやっかいな問題があるわけですね.メトン周期がアテナイの正式な暦として採用されていなくても不思議はありません.

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 比較的メトンの時代の近いテオフラストス(アリストテレスの弟子)がメトンについては次のように言っています.

テオフラストス『天気の徴候について』4(試訳)           アテナイで,ファエイノスはリュカベトス〔の丘〕からの至点(夏至と冬至)についての現象を観察し,彼の弟子のメトンは19年周期を構築した. まずファエイノスはアテナイの在留外人(メトイコス)であり,またメトンはアテナイ人だった. また他にも同じ方法で天文学を研究した者たちがいた.

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  学者から見たメトンと,一般市民から見たメトンでは評価がまったく異なります.この辺のことは,とにかく「プロ」を嫌う(胡散臭がる)「アマチュア指向」のアテナイ人の精神性をよく表わしているのかもしれません.ソクラテスもアリストファネス『雲』では随分と胡散臭い人物として扱われています.
    他の史料から総合的に考えると,ソクラテスの時代のアテナイの暦は,8年周期であり,第3,5,8年目に閏月を挿入していたと考えられるようです.  

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 しかし,8年周期の開始年を特定する確かな史料がないため,ソクラテスの亡くなった年,前400/399年の閏月の有無を知ることはできないと考えたほうがよいでしょう. この時点で,ソクラテスの命日を何月何日であると確定するのはもう諦めた方が良さそうです.

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   なるほど… やっぱり諦めずに手がかりを調べてみましょう.閏月の挿入の時期が分からない場合,暦は次の4パターンが考えられます.

① 新年が夏至よりも早く始まり閏月がない
② 新年が夏至よりも早く始まるが閏月がある
③ 新年が夏至よりも遅く始まり閏月がない
④ 新年が夏至よりも遅く始まるが閏月がある

 これらを計算してみると,前399年のアンテステリオン月の新月の日は1月15日もしくは2月14日となります。

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厳密には新月の後の「二日月」を見ることで月が始まったようなので,新月の日と,月の開始日とは1日のずれがある可能性あります.

 この時期に,デロス島でアポロンの祭が行われていたということ分かれば,アンテステリオン月=ヒエロス月と断定できそうです.何か史料はないものかと古代の文献を漁ってみると,面白い記述を見つけました.

2.3 アポロンの祭はいつ行われたのか?

アレクサンドリアのディオニュシオス(旅行家)           『人々の住む場所』525-529(試訳)
アジア〔の島々〕で最初に〔神により〕割り当てられた土地は,
デロス島を両側に取り囲んで,〈キクラデス(取り囲む)〉という名でよばれています.アポロンへの捧げ物として,彼らは皆,踊りを導いており,
人々から離れた山奥で,甘い春が新たに始まるとき,澄んだ声のナイチンゲールが孕みます.

 デロス島でのアポロンの祭は春が始まるときに行われており,それはナイチンゲールの産卵期であるということになります.すると平均すると1月末頃に始まるアンテステリオン月にアポロンの祭は行われていたと想定して良いでしょうか?? 1月末というのはまだ冬の気候です.ナイチンゲールはアフリカで越冬していることでしょう.これは困りました.こうなるとアポロンの祭がヒエロス月に開かれていたという想定も疑ってかかる必要がありそうです.

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 古代ギリシャ人にとっての春というのは,ヒポクラテス(医者)やヘシオドスなどの言及を参考にすれば「アークトゥルスが夜の始まりに昇る頃, もしくは春分からプレイアデス(昴)が日没前に昇るまで」ということなので,ソクラテスの時代のアテナイでは(早くて)2月下旬~5月中旬ということになります.(ヘシオドスの時代とソクラテスの時代では星の出没の季節が「歳差運動」によってずれますので,修正する必要があります.)春の始まりということですから,3月(早くても2月末頃)に行われたとみていいでしょう.するとアンテステリオン月よりもエラフェベリオン月の方が有力に思えます.

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 そして重要な祭は満月の頃に行われることが多かったようです.電灯のない時代ですから,デロス島でのアポロンの祭も満月の頃に行われるという想定は魅力的です.ちなみに前399年の満月の日は2月28日と3月29日頃です.アポロンの祭というアテナイ人にとって重要な祭が何月に行われていたのかが伝承されていないのは奇妙です.この祭は,もしかすると暦月によらず,春が始まる頃(星の出没を目印に),あるいは冬の嵐が終わる頃(ギリシャ語で冬はケイモンというのですが,これは嵐という意味も持ちます),デロス島への航海ができる時期を見計らって催されたのかもしれません.

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 ここまで暦の検討を行いましたが,結局のところ行き詰まってしまいました.少し視点を変えてみましょう.
 アテナイからデロス島へは,当然ですが船で行ったわけですから,次は古代ギリシャの航海について調べてみましょう.

〔第3回につづく〕


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