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連載:私たちはソクラテスの命日をどこまで知ることが出来るのか?第5回(最終回)

5.1 アポロンの誕生日

 第4回までの調査で,航海の日程や地理学者の証言,そしてパラペグマについて検討することで,やはりデリア祭(アポロンの祭)はアンテステリオン月に行われていたのではないか? ということになりました.しかし,1月では早過ぎます.そこでもう一度アテナイの暦について検討することにします.私が何か勘違いをしている可能性があるからです.まず「デリア祭は,アポロンの誕生日(もしくは誕生月)に行われていたのではないか?」ということを思いつきました.調べてみましょう.

 ギリシャ神話については,ヘシオドス,ホメロス,アポロドロスなどなど,多くの邦訳(そして解説)があるのですが,私はそれだけでは全体像を掴めませんでした.そこで次の文献を準備しました.

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呉 茂一 『ギリシア神話 』新潮社, 1994年

 気になることを調べるときは,こういった索引のある解説書を手元に置き,そこから他の文献にあたると目当ての情報が得られますね.ちなみに『ギリシア神話』には文庫版もあるのですが,先祖の教えにより,できる限り単行本(要するにハードカバーが好きなのです)を買うようにしています. 

 アポロンの誕生日については,プルタルコスがそれはデルフォイのビュシオス月の第7日目であるという報告をしています.

プルタルコス(伊藤照夫訳)『モラリア〈4〉』292E(西洋古典叢書,141~142頁)
この月(※ビュシオス月)にアポロン神に伺いを立てて(ピュスティオーンタイ)答えてもらう(ピュンタノンタイ)。これが正統かつ伝統の手順だからである。すなわち、この月には託宣が下されるわけだが、この七日が神(※アポロン)の誕生日と見なされているからだ。

 このビュシオス月が現在の何月にあたるかというのは,またしても閏月の問題があるのですが,これはほぼ確実にアテナイのアンテステリオン月と同じであると考えられています.さらに面白いことに,プルタルコスはビュシオス月は〈多くの植物が生え,芽をだす〉といっています.これは明らかにビュシオス月が2月中旬から3月に固定されていたことを示唆します.
 いままで散々に悩んできましたが,(アポロンの誕生日である)ビュシオス月が2月~3月になるように,ギリシャのポリスは閏月を挿入していた可能性がでてきました.つまり夏至(もしくは冬至)よりも前に新年が始まれば,初月(アテナイ暦ではヘカトンバイオン月)を繰り返すというわけです.すると,アンテステリオン月(アテナイ)=ヒエロス月(デロス)=ビュシオス(デルフォイ)は同期します.この想定を裏付ける史料はないものでしょうか? 実は次のような碑文が残されていました.

5.2 閏月の謎が解けた!?

ギリシャ碑文集成,Ⅰ³,78a,53-55行(前420年頃)(試訳)
新しい〔年の〕アルコンはヘカトンバイオン月を〔閏月として〕挿入し,またバシレウスはペラルギコンの聖域の境界を決めねばならない,

 いままでは参考文献にならい,閏月としてポシデオン月を繰り返していると考えてきましたが,どうやら例外もあるようです.この碑文が示すように,民会の決議によって暦は季節と調整されていたのかもしれません.夏至よりも早く新年が始まってしまった場合,初月(ヘカトンバイオン月)を繰り返すことで,暦を調整していたとすれば,これは同時にアポロンの誕生日の月であるビュシオス月が春になるように閏月を調整されていたという想定は魅力的です.すると前399年のアンテステリオン月は2月14日から始まります.そしてその第7日目は2月20日です.ところで,デリア祭は島に到着後すぐに始まったのでしょうか? プルタルコスが次のようなことを言っています.

プルタルコス『ニキアス伝』3(城江良和訳『英雄伝』西洋古典叢書,142頁)
通例、諸都市がこの神に歌を捧げるため島に送り込む舞唱団は、とくに支度もせずに船を着けたところを、すぐに大勢の人の出迎えを受け、準備も整わないうちに歌うように求められるので、船を下りながら、混乱のなか大慌てで冠をつけたり衣装を換えたりすることになる。しかしニキアスは、祭礼使節を先導するにあたり、まずみずから舞唱団と犠牲獣のほか祭具一式をともなってレネイア島に乗り込んだ。その一方で、金箔と染布と花輪と掛物で見事に装飾を施された舟橋の、長さも調節したものをアテナイで作っておき、それを運んできて、夜のうちにレネイア島とデロス島の間のさして広くない海峡に渡した。そして日が昇る頃、神に捧げる行列と、豪華な衣装を着けて歌を奏でる舞唱団を引き連れ、橋を渡ってデロス島へ上陸したのである。

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 どうやら祭は上陸と同時に始まったようですね.仮にアポロンの誕生日(第7日)にデリア祭が始まるとして,第1日目に出港すれば,間に合うと考えてよいでしょう.そしてこの日(第7日)から満月までの1週間,アポロンの祭が行われていたとすれば,終わるのは2月28日,3月1日頃です.これは地理学者ディオニュシオスの言及とも一致します.

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 以上の調査をまとめると,ソクラテスの裁判は使節のデリア祭への渡航の時期であり,それは前399年の2月中旬(アンテステリオン月の開始は2月14日)であり,デリア祭は第7日目に始まり(2月20日)おそらく満月の日の頃までには終わった.その時期は前399年の2月28日から3月1日頃.季節は春に近づいており,年によってはナイチンゲールの産卵が始まっていたかもしれません.そして使節はアテナイへ帰ろうとするが,向かい風(もしくは北風)の影響で出航できず,随分と時間がかかってしまった.帰港は出発からひと月後の3月中旬になったのでしょう.そしてまさにその日がソクラテスの刑死の日になってしまったのです.

 デリア祭の使節が出航したのがアンテステリオン月の第1日目であれば,ソクラテスの刑死はその30日後,つまり3月16日となります.繰り返しますが,クセノフォンの言う30日というのが,〈30日〉のことなのか〈ひと月〉のことなのかを判断する材料はありません.3月16日という想定は以下のことを仮定しています.

①アンテステリオン月の第1日目にデリア祭の使節は出航した.
②夏至(冬至)よりも早く新年が始まった場合,初月を繰り返す習慣があった.暦の解説書にあるように規則正しく閏月を挿入したわけではなく,季節と暦のずれに注意して閏月を挿入した.
③クセノフォンのいう30日という期間は,刑死までの正確な日数である.

 どれも確かな証拠を知りません.そのことを肝に銘じながらも,ソクラテス裁判からの30日間を表にして振り返ります.繰り返しますが,あくまでも提案です.

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 デロス島到着前にリニア島(レネイア島)を経由して,6日目にデロス島に到着して,デリア祭が始まったと提案します.第3回で検討したように,アテナイからデロスへは4日ほどあれば渡航できます.早ければ3月4日(アンテステリオン月の19日頃には使節船は帰港する可能性がありました.するとソクラテスは,クリトンが最後の説得を行うまでに予定よりも10日間ほど命を長らえたことになります.ソクラテスの家族や友人や弟子たちがどのような思いでこの10日間を過ごしたのか… 

ここで第1回目でふれた,納富先生の年譜をもう一度引用します.

前三九九年 
ソクラテス、政治家アニュトスと弁論家リュコンを後ろ盾とするメレトスという若い詩人により、不敬神の罪で告発される。裁判が行われ、死刑判決が下される。一(ひと)月後の三月に刑死する。

 私たちはようやく,そして確かに前399年の3月にソクラテスが亡くなったということを知ることができたのだということになるのかもしれません.そしてこの「前399年3月にソクラテスは亡くなった」ということ,これこそ私たちが求めていた誠実な答であろうと思います.随分と長くなってしまいましたが「日付」というものについて,もう少しだけお伝えしたいことがあります.

5.3 日付の記録


 ソクラテスの死は彼の弟子をはじめ多くの人々に記憶されたはずです.ですがその日付が明確に残されていないのは何故なのでしょうか? 研究者の方による註釈を頼りにどうにか3月(の中旬)だろうと調べるのが精一杯でした.確かな証拠のない仮定を積み上げれば,もっともらしく前399年3月16日であると主張することも出来ますが,ここまでいくと想像が勝っています.
 もしかすると,ソクラテスの時代の人々にはイベントの日付を記録するという習慣がなかったのかもしれません. 同時代の弁論家(たとえばアンティフォン)の作品には日付は出てきません.トゥキュディデスの歴史書にも何月何日といった記述は2つしかありません. たとえばトゥキュディデスは次のように出来事を振り返ります.

トゥキュディデス『歴史』4巻52節 (藤縄 謙三 訳)
それに続く夏が始まるや否や、新月の頃に部分的な日蝕が起こり、また同じ月の上旬に地震が発生した。(※トゥキュディデスのいう夏は四季の夏を意味しないので注意が必要です)

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 この部分日食は前424年3月21日に起こったのですが,この時トゥキュディデスは既に成人していますので,この出来事を覚えていたはずです.日食のような印象的なイベントの起きた日であっても〇〇月の何日目とは言わないのです.トゥキュディデスは日食は新月の日にしか起こらないことを知っていたにもかかわらず,その日を,新月の「(ギリシャ語ではperi)」と書いています.これは何月何日のことか覚えていなかったとしか思えません.

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なお日食の観察は目を痛めることがあるため,遮光グラスが一般的ではない時代では水盤に水もしくは油を張って間接的に観察したとセネカが『自然研究』で詳しく報告しています.

 そしてアリストテレスの著作にも,何月といった記述はありますが,何日とは書かれていません.デモステネスやアイスキネスの時代―つまり前4世紀中頃以降―になりようやく(本格的な)日付の記録が見られるようになります.

※なお歴史家ではシチリアのティマイオス(前4世紀中頃に活躍)という人物が暦の計算に長けていたことがキケロ『神々の本性について』によって知られています.そしてこの歴史家がアレクサンドロス大王の誕生日を記録したお陰で,私たちはアレクサンドロス大王の誕生日を知ることができるというわけです.前4世紀の中頃に,ギリシャ人の中で日付の記録についてのパラダイムチェンジがあったのではないでしょうか?

 するとソクラテスの刑死を見届けた人たちには,そもそも出来事を〇〇月の何日に起こったと記録(記憶)する概念(習慣)があまり一般的ではなかった,言い方をかえると,そういう"関心が欠如"していたのではないでしょうか?(※このことを最初に指摘したのは科学史家のHenry Mendell教授だと思われます) 
 以前のnoteではプラトンの誕生日を計算しました.そこでも注意しているのですが,古い時代の偉人の記念日というのは後の時代に「おめでたい日」に結びつけられている可能性が高く,伝承された日付というものをどの程度信用できるのかはまったく分からないということです.古代人の生没日を正確に知るには,こういった問題もあるわけです.そもそも同時代の人たちでさえ,その日付を記憶していなかったのでは,後の時代の人がいくら調べても手がかりは得られないでしょう.これでは前2世紀に『年代記』を書いたアポロドロスがその日付を調べることができなくても当然ですね.

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5.4 最後に

 ソクラテスの命日を調べるために,デロス島(デリア祭)について随分と調べることになりました.最後にその後のデロス島についてご紹介しておきます.
 アポロンの出身地として栄えたデロスですが,喜劇詩人クリトン『フィロプラグモン(※)』に次のように書かれています.
(※)柳沼先生は『神の食客』と訳されていますが,フィロプラグモンは「忙しい人」ほどの意味.

アテナイオス(柳沼重剛訳)『食卓の賢人たち2』173B-C(173頁)
偉大なる財布の主たるフェニキアの船長に、
二隻の船を港に泊めさせて、
ペイライエウスからデロスへ行きたい、と彼は考えた。
それというのも、世界中でデロスだけが、
食客にとっての三つの長所を、備えていると見えたので。
すなわち、おいしいものの溢れた市場、
あらゆる種類の人の群れ、そして、
デロス人みずからが、神の食客、という次第。

 3.5km²程度の小島がアポロンの生誕地というだけで,これほどに栄えていたわけです.
 しかし,クリトンの喜劇が上演されて150年以上経った頃には,繁栄の面影を全くとどめていないほどに寂れてしまいました.前10年頃に,つぎのような詩が歌われています。沓掛先生による美しい邦訳でお届けします.

沓掛良彦訳『ギリシア詞華集』第9巻408,(西洋古典叢書,3巻245頁)

 意味の取りづらい箇所がある方は冒頭で紹介した『ギリシア神話』137頁~を参照してみてください.

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 ソクラテスの命日を調べるということを通じて,古代ギリシャ人の残したさまざまな文献や碑文にふれることになりました.さまざまな史料にあたることで,確実なこと,不確かなこと,ある程度整理できたと思います.本稿では,たくさんの古典の邦訳を利用させていただいています.関心をもった著作があれば,是非お読みになってください.あなたのその関心が,日本の西洋古典を次の世代へ継承する力になるはずです.

 本連載を最後までお読みいただきまして,誠にありがとうございます.ソクラテスの命日を調べるという作業はとても充実したものでした.ソクラテスの命日について調査,検討をする機会を提供してくださった岩波書店さまにも感謝しなくてなりません.

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[お願い]本連載は"研究"ではありません, エッセイです.よって学術的な価値は(ほとんど)ありません.ここでの結論を引用するのは絶対に止めてください.現在と異なる体系の暦を運用していた古代世界の,あるイベントの日付を確定するというのは,大変な困難を伴います.「調査」という過程を楽しむという目的で本稿を執筆しました.「ソクラテスは前399年春に亡くなった」,もっと詳しく言いたければ「納富先生によれば前399年3月に亡くなった」.これ以上詳しく言及することは「想像」に過ぎません.


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