「生きるために食べよ,食べるために生きるな」とソクラテスは言ったのか?
序.
ソクラテスの名言とされる「生きるために食べよ,食べるために生きるな/Thou shouldst eat to live; not live to eat.」を調べるとたくさんの学びがあり,我々にとってソクラテスとはどういった存在なのかを考える機会ともなりました.その学びを共有するためのnoteです.
1.ソクラテスの言葉とは?
この「格言」をソクラテスのものとして紹介するサイトがいくつかあります.そもそも我々はどうしてソクラテスの言葉を知ることが出来るのでしょうか?
ソクラテス自身は著作を残さなかったため,彼の弟子たちが,ソクラテスを登場人物として書いた「対話篇」での台詞からソクラテスの言葉を知ることができるというわけです.我々の知ることができる「ソクラテスの言葉」には,事実ソクラテスが発した言葉なのか,それとも弟子たちの創作なのかを区別することが困難であるという問題があることを知っておく必要があります.
また,ソクラテスの弟子たちの書いた「対話篇」で,現存するものは,プラトンとクセノフォンのみで,その他のものは全て散逸してしまいました.紀元後に活躍した(ソクラテスの没後400年以上!!)著作家がプラトンとクセノフォンの著作には見当たらない典拠不明の「ソクラテスの言葉」を書き留めているものがあるのですが,それらは散逸した弟子達の著作から引用されたものかもしれませんが,確かなことは分かりません.
以上を踏まえ,「生きるために食べよ,食べるために生きるな/Thou shouldst eat to live; not live to eat.」はソクラテスの言葉といえるものなのでしょうか? 考えてみたいと思います.
2.典拠判明
典拠は,偽キケロ『ヘレンニウスに送る修辞学書(Rhetorica ad Herennium)』であることが分かりました.なお,偽キケロとはキケロの偽物が書いたという意味ではなく,キケロが著者であると誤って伝承されたという程の意味です.
ここで,ラテン語の原文 Esse oportet ut vivas, non vivere ut edas. の重要な部分を解説しておきます.vivas という単語は「生きる/live」を意味する第3変化動詞 vivo の接続法・能動態・現在,2人称単数です.よって,英訳では You must eat to live,… と訳されているわけです.話者が「道徳教師」として,「生きるために食べよ,食べるために生きるな」と諭している文だと解釈できるわけです.
なお,この一節は,倒置反復法とよばれるテクニックについての文脈です.
3.ソクラテスが言っているかも?
Bartlett's Familiar Quotationsという本の70頁に,ソクラテスの言葉として似たようなものがあるという情報提供をいただきました.
(夏野真碧さま貴重な情報提供ありがとうございますhttps://twitter.com/AO_FonsEtOrigo?s=20)
この言葉の出典は,プルタルコス「どのようにして若者は詩を学ぶべきか」とされています.日本語訳から引用してみましょう.
この文について翻訳者は次の様な注釈を書いています.
なるほど,確かに「生きるために食べよ,食べるために生きるな」とよく似た言葉です.プルタルコスの著作が書かれたのは紀元後80年頃と想定されているのですが,一方で偽キケロ『ヘレンニウスへ送る修辞学書』は紀元前80年頃と想定されています.年代的には『ヘレンニウスへ送る修辞学書』の方が古いので,この著者がソクラテスの言葉として引用した可能性が考えられますが,確かなことは不明です.
また,「最古の出典」が,ソクラテスの没後,約500年後に書かれた書物ということも確認できました.プルタルコスがきちんと書物から引用してくれていればいいのですが,それすらも疑わしく,なんとも頼りなさを感じます.これについては後ほど検討してみます.
それでは,プルタルコス以外の著者が引用する言葉も確認しておきましょう.
4.みんな違って,みんな良い?
プルタルコスと同時代のローマ人クインティリアヌスも次のような言葉を書いています.
同じラテン語の文なので『ヘレンニウスに送る修辞学書』との違いが分かりやすいものになっています.さらに目立つ変更点は二人称が一人称になっているということです.それでは,ギリシャ語で引用される文をみてみましょう.
それぞれのギリシャ語原文を引用します.ギリシャ語が読めない方も,それぞれの文に使われる単語の形が異なることに注目してみてください.
プルタルコス,アテナイオス,ディオゲネス・ラエルティオスの文が,それぞれ異なることから,彼らは書物を写したのではなく,記憶を頼りにして,この「ソクラテスの言葉」を書いたものと思われます(もしかするとソクラテスのこの言葉を書いた書物が実はなかったのでは?と邪推してしまいそうですね).
また内容的にも,プルタルコスは「善き人と悪き人の対比」としており,アテナイオスとディオゲネス・ラエルティオスは「自分(ソクラテス)と他の人の対比」としているといった違いもあります.
紀元前1世紀に,倒置反復法の例文としてラテン語で書かれた「生きるために食べよ,食べるために生きるな」と,紀元後1世紀にクインティリアヌスにより同じく倒置反復法の例文として書かれた「私は食べるために生きるのではなく,生きるために食べている」との関係は不明ですが,当時こういった表現はよく知られていたのでしょう.
プルタルコスが引用する「すなわち,愚劣な人々は食べたり飲んだりするために生きているが,しかし,善き人々は生きるために食べたり飲んだりする」は,ソクラテスの弟子たちが書いた著作からとられたものなのかもしれませんし,もしくは当時ギリシャ・ローマでよく知られていた言葉をソクラテスのものと誤解したのかのかもしれません.プルタルコスの著作はよく読まれたため,その後彼に続く著作家は,ソクラテスの言葉として有名になった言葉を(記憶を頼りに)引き写すことになったのでしょう.この辺りが,今回の調査の限界となりそうですが,それぞれの著者が引用する言葉には,微妙な違いがありました.そこに注目してもう少し検討してみましょう.
5.決定的な違い
これまでの調査で「ソクラテスの名言」には,人称に注目すると3つのパターンがあることがわかります.
① 私は食べるために生きるのではなく,生きるために食べる
② あなたは食べるために生きるな,生きるために食べよ
③ 愚者は食べるために生きている,善人は生きるために食べている
『ヘレンニウスへ送る修辞学書』の「生きるために食べよ,食べるために生きるな」はタイプ②に該当します.この話者は,教訓を聞き手に対して諭す立場,つまり「道徳教師」として振舞っていることになります.
このタイプ②は,ソクラテスの言葉として適切なものでしょうか? この言葉をソクラテスの言葉として引受けるかは,ソクラテスという哲学者の思想をどのように解釈するかという我々の問題になりそうです.
ソクラテスとは,人生の教訓を語り,弟子たちを導く存在だったのでしょうか?
付録.プルタルコスの意図
プルタルコスは,どういった意図で「ソクラテスの言葉」を引用しているのでしょうか?
この言葉は,ある喜劇詩人の享楽的な生き方を歌った詩についての反論として引用されているのです.
この「ソクラテスの言葉」は,仕事の後に飲むビールが旨いから,仕事を頑張れる!という人に使う言葉なのでした.勇気のいる言葉ですね.
【終】
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