21世紀の平和への道

~多くの人に取って第二次世界大戦は「神話」である~

ちょこっと見たのだが、今の若者に取って「反戦アニメや反戦映画は、なんか説教臭くてうざったいモノ」なのだそうだ。
 確かにそうである。終戦から80年。戦争を経験した人はもはやおらず、多くの日本人にとって、第二次世界大戦は「神話」になった。遠い昔、自分たちと別の国は、戦った、神々の世界の戦争の話で、自分たちと関係のない話なのだと。

 私は、日本の近現代史を多少知っているので、あの戦争に至った、無責任で指導力に欠けるメカニズムは恐らく現代で復活する可能性はあるだろうと思っている。色んな人も警鐘を鳴らしている。
 しかし、どうも誰も「血肉」として経験してないので説得力がない。どういわれても、「まさか神々の世界のラグナロクが、現代の日本に復活する」と思っていないのである。

 私は、現代において、新しい平和への道を作るために、スポーツをする必要があると考えた。

 日本の仮想敵とは端的に言えば、中露、時々韓国である。第二次世界大戦のような「神話」による宗教教育ではなく、これらの国々と手を取り合える手法。そして、「喧嘩が起こった時に、より、軽微な被害で喧嘩を負える手法、世論」が必要である。

 ~スポーツをして疑似的な戦争を経験すればよい~

戦争とは、暴力の発露である。そして人が人を狩る狩りである。であるならば、スポーツを使った身体的な競争で代理戦争をすればよい、と言うのが私の考えである。

 スポーツで培う身体性、競争、強い身体。そして、仲間意識こそが、疑似的な戦争を経験させ、自分の暴力性を自覚させるであろう。仲間意識とは、逆を言えば「自分の仲間でない人はイジメてよい」ということなのだ。これが「敵国」に向けられることが全ての敵意の始まりである。

 戦争、喧嘩において、説得力を持たせるのは経験である。実際に経験しなければ説得力は得られない。そして、戦争を経験した人はいない。

 であるならば、疑似的な戦争で十分。実際に戦争して命のやり取りをする必要ない、と私は考える。代替的な暴力で競争を経験させれば、それで済む話である。

 空虚な「神話」の話より、身体性に訴える経験の方がよほど説得力があるだろう。

 以上である。
新しい平和の道を、21世紀にいる我々が作り、喧嘩をしないこと、そして、喧嘩が起こったとしても「よりマシな喧嘩であること」「よりマシな決着がつくこと」を願うばかりである。

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