琴葉茜と暇空茜 ~オープンソースコンテンツにおける「優しい終身の独裁者」

こういうポストが話題になった。

つまり、ゆゆ様のアイコンで言論活動しまくっている、私も見事に標的に入るが、それは一応置いておいて、このような問題の論点をまとめたい。
 結論から言えば、「許されるか、許されないか」その論点について、私は答えを出すことが出来ない。ただ、このコンテンツがたどってきた歴史から、論点を提示することが出来る。一度読んで、熟考してもらいたい。

オープンソース”コンテンツ”における著作人格権の問題

これは、琴葉茜が、「きわめて緩い著作人格権」を持つ、キャラクターコンテンツだということが事態を複雑にしてしまった。

一応、私も東方プロジェクトやゆっくりの発展を見ているので覚えがあることだ。

東方プロジェクトのキャラクターやゆっくり実況は、誰でも作ることが出来た。つまり、基本的なキャラクターイメージがみんなで共有されているので、それに沿って、新しい話や漫画を好きに作ることが出来たのである。
 そして、その著作人格権をガン無視する”二次創作”を、創作者が認めているという状況だったのである。

 そして、それを商業活動に転用することも可能だった。キャラクターを借りて、自分で新しい話を作る。それを売ったりしてもいい。将に著作権フリーのキャラクター状態だったのだ。東方プロジェクトのアレンジCDにおいては一時期「アレンジCDを作ってたらフェラーリが買えた」と言わしめるほどだった(今は流石にそんなことはないw)

 そして、それを見て、更に新規が入ってくるというサイクルだった

 そうして生まれたのが東方プロジェクトの山のような二次創作漫画、大量の初音ミクのボカロ曲、などなど、インターネットにおけるコンテンツ文化である。
 まさしく、今のインターネット界隈の豊かな文化は「二次創作」つまり「著作人格権の無視」で成り立っているのである。

 これはソフトウェア開発における、オープンソースソフトウェアの発展ときわめてよく似ている。
 頭の良い誰かが土台を作り、それを匿名の誰かが好き勝手改造し、より改善されたソフトウェアが出来ていく、というサイクル。
 まさに、LinuxやPython、変わったところでは格闘ゲームエンジン、Mugenなど、様々なオープンソースソフトウェアがこのようなサイクルで発展、開発されてきた

 このようなコンテンツを「オープンソースなコンテンツ」と呼びたい。

 ここから、暇空がどうこう、という論をしたかったが、
俺、あの人のこと良く知らんのと、嫌いなので省略。

 「オープンソースなコンテンツ」は、「キャラクターを見知ってる人たちだけで、キャラを使いまわす」ので、「荒らし」の出現を想定してないよね、という話。


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