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情けは誰のため?

 「情けは人のためならず」というのは「人に情けをかけたらいつかそれが自分に返ってくる、つまりは巡り巡って自分のためなのだ」という意味だ、と親からか学校の先生からか忘れたが教わった。その解釈は妥当だろうか。敢えて疑ってみたい。
 対案としては2通りの解釈が可能だ。1つ目は、もっと身も蓋もない話で、「不遇な人が視野に入ると自分の居心地が悪いので、それを解消するために情けをかけざるを得ない」という意味に捉えること。おいしい料理をまさに食べようとしていたら、食べられなくて指をくわえた人がこちらをじっと見ていたとする。推測するに、それをそのまま無視して平気で自分だけ食べられる人はそれほど多くないのではないか。料理を堪能したいというエゴイズムを徹底しよう思ったら、結局そうした他者にも配慮せざるを得ないという逆説。「疚しさ」というのは人を行動に駆り立てる上で大きな効力を発揮する要素だが、それに由来する「情け」というものが存在するのは確かで、そうした「情け」はことほど左様にすぐれて利己的なものであると言えるだろう。
 2つ目は、「人に情けをかけることができる、そうした境遇自体が他ならぬ自分にとっての幸福だ」という意味に捉えること。プレゼントを贈る相手がいる、そういう者はそもそも贈る相手がいない者と比べてどれほど幸せなことか。逆に、自分の幸福の他に何も望むものがないという境遇は、どれほど不幸なことか。幸福以外の何かを目的としてはじめて人は幸福になれる、とJ.S.ミルは言う。「情け」が生じたということは自分の幸福以外の目的が生じたということと同義であり、そうした状況自体が自分の幸福を形作る。この意味においてもやはり、「情け」とは利己的なものだと言える。
 冒頭の解釈だと「情け」が生じてから自らが受益者となるまでに時間差があるということになるが、対案の2通りの解釈はいずれもそれとは異なり、「情け」が生じたその瞬間から自らが受益者であると捉える点において共通する。巡り巡って後からもらえる見返りなどどうでもよく、「情け」が生じたこと自体が既に自分のためになっている。そのように考えるほうが謙虚で好感が持てる。

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