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「語学」をやめたい

 「語学」という日本語は、大きく分けて次の2つの意味で使われている。

 ① 母語以外の言語を操る技能、またはそのトレーニング
 ② 各言語ないし言語一般を対象とする研究分野(〇〇語学、言語学)

 この2つは、一方ができるからといって他方もできるというものではない。①が得意だからといって②ができるとは限らないし、②をやる人すべてが例外なく①に堪能とも言い切れない。このように、①と②とは、明確に区別されるべきものである。ところが、実際にはその区別を、あろうことか「語学」を専門的に扱う(我々)業界人をも含め、誰もがいいかげんにしているように思えてならない。
 「知識人」の伝統においては、多くの学問(②を含む)をやる上で、とりわけ西洋語の文献を読むことが必須だった歴史的経緯により、①は学問以前の「できて当然」のツールであり、その意味において付帯的地位しか与えられないものである。太宰治の言う「語学の教師」が侮蔑的ニュアンスに満ちていることは今さら言うまでもない。憶測だが、「学」だと思っていないものをあえて「学」と呼ぶ、という形で嘲笑する意識も一部にあったのではないか。
 時代は下り、そういう伝統が完全に廃れたわけでもないだろうが、現代では侮蔑的ニュアンスを添えずに「語学」という言葉が使われることも多い。「語学ができる」というのは純粋な褒め言葉だろう。ただ、「語学ができる」という表現は①と②の両者に跨って適用され、どちらができる人も、なんとなく「頭がいい」とか「勉強熱心だ」といった評価がなされ、一緒くたにされている感がある。技能や身体能力と、知識や論理的思考能力とが、一律に単位や成績という形に変換され序列化される学校というものの限界と言えばそれまでだが、この現状は、①と②の双方に本来それぞれ与えられるべき評価を不当にぼかしているとは言えないか。
 ①は、スポーツや芸術等と並ぶ技能としてはっきり位置付け、評価を与えられるべきである。同時に、②における知識や論理的思考に基づく研究能力とははっきり区別されるべきである。語「学」という言葉の響きや、ノートを開いて鉛筆を持つ「勉強」のイメージに惑わされてはいけない。「TOEICが高スコアだ」「語彙が豊富だ」「発音が上手だ」といったことが、「足が速い」「筋肉量がすごい」「歌声が素晴らしい」などと並べて評価されるべき技能であることは疑いない。そして、そうした技能と研究能力とは、互いに優劣をつけるような関係にはない。

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