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#上京のはなし「何度行ったやら」


 上京。東京に行くこと。観光も入るのだろうか?
 最初に上京したのは修学旅行。本郷の旅館に泊まった以外、東京のどこを回ったのか定かな記憶がない。ただ自由時間が与えられ、新宿と渋谷の駅に降り立って駅から近いところを友達と歩いた。あまり離れると迷子になりそうで、背後に駅が見える範囲だけ。悪い人にさらわれないかと不安で気もそぞろだった。それでも充分東京を体感した気になった。引率されるのではなく、自分の足で歩いた初東京。人が多い。建物が高い。空が狭い。田舎者の感想はこの3つ。
 
 2度目は大学受験。幸い一校拾ってくれ、新聞奨学生に申し込んだ。親には頼らないと有無を言わせず、とにかく東京へだった。親の心、子知らず。
 
 移住で上京3度目。販売店に住み込むので新聞社の本社ビルで販売店の人と落ち合うべく、東京駅から山手線のホームへ。ベンチに座って電車を待った。来た、と立ち上がるも車内からどっと人、人、人がなだれを打って降りてきて、その勢いに負けて乗れなかった。夜行列車で上京して朝の通勤時間だったのだろう。東京から強烈なジャブを喰らって、へなへなとまたベンチに座り込む。次の電車に意を決して乗った。見上げる本社で待っていた人の良さそうな販売店の番頭さんと、また電車に乗って下町に向かう。自分で選んでおきながら上京してまだ数時間のせいか、あるいは上京して初めて会話した人が電車内では寡黙になったせいか、労働力と引き換えにどこかへ身売りされるような気分になった。販売店に着くと、同日少し前に山形県から入店したM君と一緒に個室で待たされた。個室と言っても四畳半くらいの部屋の真ん中に2段ベッドを置いて、上段と下段の左右を互い違いに板で仕切ったL字空間の個室。M君は明らかに不安な顔でひとり待たされていて、逆に大丈夫よと自分も鼓舞するようにあれこれ話しかけて気分が落ち着いた。やがてL字空間を上下で共にした長崎出身のN君に「夜な夜なあの時にティッシュを抜き取る音が聞こえるから、咳をしてごまかすよ」と言ったら爆笑される。姿は見えずともごそごそすれば聞こえる狭さだったが、それもやがて気にならなくなった。
 
 全国各地から14名の学生が上京して住み込んでいた3階建ての販売店が今どうなっているだろうとグーグルマップで検索してみたことがあった。結局見つけられなかった。当時は金網のフェンスで囲まれた国有地が道を挟んで広がっていたのに、ビルやマンションが所狭しと並んでいて道が見えない。販売店はすでに壊されてビルの一角に紛れ込んでいるのだろう。青春の跡地は脳裏にだけに刻まれている。同期入店組が四人いて、Ⅿ君は関東圏の税務署に勤めている。理髪店によく通っていたN君は故郷の銀行へ。ヤンキー上がりのS君は設計事務所、窓枠に各種ビールの空き缶を並べていたY君はテレビ局の下請け会社で装飾の仕事に就いた。朝夕刊の配達400軒と月末の集金で学費と朝夕食と数万円の給料。まだ安い学費だったから労働に見合っていたのだろうけど、現在でも新聞奨学生制度はあるようだ。朝早いから夜も早い。限られた時間で学生生活を充分謳歌してほしいものだ。

 東京には六年居た。販売店をやめて引っ越した先で知り合ったK君はある大学のみを目指して四浪中。ある政党の下部組織に属していて、そこが発行する新聞の印刷工のアルバイトで暮らしていた。その新聞を配達するアルバイトを頼まれ引き受けた。30軒。楽勝すぎてよく寝坊してしまい、地区の代表者が毎朝起こしに来るという高級待遇?だった。ある日、彼が運転するバイクの後ろに乗って利根川の源流を探しに行こう!と出かけたが、結局雨に打たれ、バイクも故障しトボトボと歩く羽目になってしまった。象徴的な出来事だったような気がする。あちこちふらりふらりで、目的を達せずの東京生活だった。

 都落ちだとつぶやきながら新幹線の車窓から有楽町を眺めて故郷に帰ってから、仕事の出張で上京したのが4度目。東京はゴミゴミとした見知った街だった。当時あるSNSで知り合った女性とその時始めて会った。帰り際に駅の改札へ上がる階段の下で「ここで見送るから」と言う彼女の今にも泣き出しそうな顔を思い出す。階段を登り切って振り返り、またねとも言えずに手を挙げて別れた、東京。

 「東京」を口ずさむと、ほろ苦い東京が戻ってくる。とにかく東京へ。あわよくば東京から世界へ。それが今も故郷にいて、たまにPCで東京物件を探してみる。ここに住んだらどういう生活が待っているだろう、と。東京は憧れの幻影だ。どこへ住んだって同じなのだ。人との、そして自分自身とのかかわりようで街の景色は変わってくる。
 
 「へ~東京に住んでたの? 何してたの?」
 「新聞配達(笑)」



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