日本国紀、中田大学、西村ひろゆきを見てる奴はバカだ

という感情を消していきたい。

表題のコンテンツの良い悪いの話ではなく、自分が愚かだと思う人、モノを見下してしまう心情がどれだけ自分の幸いを阻害しているかということです。

自分は普段から割と本を読んでいる方だと思います。読書の動機の1番は単純な道楽で、他に話題集め等もあるんですが、自己顕示欲や「知識を得て他人より優れていたい」という感情があるのもまた確かです。「頭いい」と思われたいんです。

しかし知識を得るにつれて「そんなことも知らない人はバカだ」「そんな劣悪なコンテンツを視聴する人は愚かだ」という感情が頭をもたげてくるのを覚えます。せっかく僅かばかり知識を身につけても、理想の自分になれるどころか選民意識に囚われ、他人を見下すカッコ悪い大人になってしまいました。

間違ったことを言っている人にそれを指摘するのは問題ないと思います。ただしそれは相手に恥をかかせないようにしなくてはなりません。皮肉たっぷりに揶揄したり、晒して仲間内で嘲笑するようなことは教養人として相応しい態度ではありません。

選民意識と同時に気をつけるべきはニヒリズム(虚無主義)とシニシズム(冷笑主義)です。「どうせ世の中は〜だ」「全ては無価値だ」という思想が一形態ですが、虚無と冷笑は言葉を変えて色々な形で心に住み着いてきます。幸いを目指していたはずが、知識を得て進む足を止めてしまうようでは本末転倒です。

努力に努力を重ねて知識を身につけても「すごい」「頭いい」「物知り」などとチヤホヤされることはごく稀です。特に人文学の本懐は、社会が当然だと考える既存秩序に疑義を挟んだり、一見して単純なものを敢えて深く思考する所にあるので、むしろ知識を得るにつれ周りから倦厭されるようになることすらあるでしょう。

そこで「世の中バカばかりだ」「世の中に価値はない」「どうせ世の中はそんなもんだ」という考えに至ってしまっては、一体何のために苦労して知識を得たのか分かりません。

ドイツの思想家マックス・ヴェーバーは『宗教社会学』において以下のように言いました。

知識人が求める救済は「内面的困窮」からの救済であり、従ってそれは非特権階級に特有な外面的困窮からの救済に比べて、一面では生活からより遊離した、しかし他面では一層原理的かつ体系的に把握された性格を持っている。

知識は自分と他者の内面的困窮からの救済のために。本当の幸いの為に用いてください。かくゆう自分も全く実践できてませんが、そう心がけたいです。


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