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ドーナツ(短編小説)

 赤子に乳を吸わせる仕草が母なれば、この仕草はなんぞやと思いながらも、懇切丁寧にうちは股を拭いている。トイレットペーパーに赤いもんが付かんくなったのを確認して、小さいパンツにこれまた小さいおむつみたいなんを貼っ付けて履く。しょうもない。
この一連の所作が女たらしめるもんかと言われると、どうもピンと来んけれども、これがメスの所作かと言われてもよく分からん。こんな情けなく股を拭いて始末している他の動物を見たことがない。
 ずらっと並ぶこの個室で、何匹ものガールズが、お股中心の段取りを組んでいるのかと想像すると、うちは全部の扉を黙って開けていきたくなる。

          ◆


 トイレを出て教室に戻ると、知らん間に帰りの会は終わっていて、愛子と咲が「しっかりしいや」と言わんばかりにこちらをずんと睨んでいた。

「トイレ長すぎやろ、何出してんねん」
「生理やねん」
「それはしゃあないな」

 うちらはこの聖美女学院で十三歳の時に出会ってから、ほとんど毎日を一緒に過ごしている。
公民の爺ちゃん先生の他に男はおらず、そんな環境での「生理やねん」という単語は一種のショートカット機能があって、たった六音で百ほど気を遣わせる、何か大きな重力を持っている。

「この後なんかあるー?」
「特に、奈緒は?」
「何もないよ〜」
「じゃあドーナツ!」

 愛子のドーナツ号令がかかり、うちと咲は慣れた足取りで愛子に続く。聖美女学院は各駅しか停まらん寂しい駅から、更に三十分ほど歩いた丘の上にあるもんで、駅前のドーナツ屋(と言っても小さいショッピング施設の中に入っているチェーン店)まで行くとなると、四十分ほどかかる。
その四十分の道中、うちらはなんやかんやと話すものの、何となく本題はドーナツ屋に着いてからという暗黙の感じがあって、そこでは何の感情もない会話をしながら、多分三人とも違うことを考えている。そんな風に時間をあしらえたのは、なんとなくこの空間に、永遠めいたもんがあったからやと思う。


 ドーナツ屋に着くと、各々二つずつドーナツを選んで、フードコートの四人席を陣取る。愛子は中にクリームが入ったやつ、咲はなんか白いココナッツみたいなんがまぶされたやつ、うちはあのもちもちしたやつがマストや。
 話す内容はもういつもの事やから分かってるけど、愛子が話し始めるまでの少しの間、うちはいつも初めてドーナツを食べたかの様なリアクションでその穴を埋める。深い意味はない。

「美味しい!やっぱり美味しいなぁ!」

 初めての設定やのに「やっぱり」と言ってしまったな、などと人知れず悔やんでいると、愛子がこれ見よがしに憂いた表情をうちと咲に向け始める、これが乙女の所作である。

「なんかあったん?」

 ドーナツを千切りながら流れる様に咲が促すと、フィールドは自ずと整うから、うちもすかさずベンチ入りする。

「健人と別れるかも〜・・・」

「またか」

 咲はやっとこさ引き千切ったいつもは頼まんハードドーナツを、口に放り込みながらそう言い捨てるもんやから、愛子は上目遣いでうちに助けを求めてくる。

「なんでやの、この前までらぶらぶやったん違うん」

「どうせまたあんたの浮気やろ」

「だってさ〜」

 これまで幾度となく繰り返してきたやり取りやけど、毎度相手方の固有名詞は変わる。愛子は所謂「男好き」というやつらしく、中学時代は小学校の頃から通っているというスイミングスクールで乱獲し、今では大学受験の為に通い始めた予備校で、その手腕を発揮している様子やった。

「自業自得やん、というか気持ち悪いわ、そんな色んな奴とひっきりなしに付き合うとか考えられへん、奈緒もそう思わん?」

 咲はこの話題になるといつも語気が強くなるから、うちはなんとなく同意してしまう。

「そやな〜」

「なんでよ〜私はモテたいだけやの〜分かるやろ〜」

 愛子は自慢の長いまつ毛でうちを絡め取ろうと必死らしく、せっせと右腕を絡めてくる。
 うちはそんな愛子を眺めながら、「これが女の所作なんかな〜」とぼんやり考えていた。

「訳がわからん、モテてどうすんの、あたしは男に頼らんと生きる方がよっぽど格好良いと思うわ」

「え〜、私は守ってもらって、かわいいかわいいしてほしいな〜」

 うちはそんな、どちらともないぬるい言い合いを聞きながら、今日も冷えたドーナツの穴を見つめている。

          ◆


 聖美女学院に入学した時、うちは初潮がまだやった。身長は平均的やったけど、体質のせいか体の発育は遅くて、シルエットはペラペラやったと思う。特に横に並ぶ愛子は、その頃から既におっぱいも大きくて、嫌でもその発育スピードは感じとれたし、咲はクラスで一番背も高くて、口に薄ら生えた産毛が、何でか分からんけど自分より大人に感じた。母は「心配せんでもそのうち来るから」と言ったけど、夏が過ぎてもそれはなかなか来ん。日に日に背だけは伸びて、それでも中身が伴わん、そういう自分じゃどうにもできんプログラムみたいなものを信じるしかないのは、完全に博打で、わざわざみんなには聞かんけど、生理が来ていないのは自分だけで、超自然的な何かから、女やと認定されていない気がしてどうしようもなくなる。
 うちはきっと、自分が女かどうか分かる前に、女子校に入ってしまったんやと、そん時思った。


 そんなに焦らしとった癖に、初潮は中二に上がって直ぐ、あっさりとやってきた。
 家で晩ご飯を食べて、食器をさげようと立ち上がった時、なんとなく股に冷たいような温いような違和感があった。これはもしやと思い便所に行くと、案の定それはやってきていて、履き古した伸び伸びの綿パンに、赤い鮮血がてらてらと這っていた。待ちに待ったその赤を見れば、何か凄まじいもんがうちの中で沸くんかと思っていたけど、案外そうでもない。うちはひとまず、この記念すべき綿パンを母に見せるべく、剥いだ尻そのままに台所へ向かうと、母は「なんちゅう格好やあんた!」と言いながらも、綿パンを見るなり、「おめでとう、これで大人の女の子や」と、エイみたいな顔をした。


 その後は尻を放り出したついでに風呂に入った。「あんまり長いこと浸かったらあかんで」と念を押されたけど、なんとなく出来るだけ裸でおりたかった。
 湯船で徐ろに自分の胸を揉んでみる。片手で容易に収まるそれは、おっぱいと呼ぶにはあまりに貧相で、胸という方がどこまでもしっくり来る。恐らく愛子みたいなんを見た人が、「おっぱい」という言葉を作ったに違いない、と勝手に納得しながらも、あれ程勿体ぶって訪れた初潮なんやから、昨日と何ら変わらんボディじゃ困るという気持ちになる。
 触れる範囲の自分の身体をあれこれ触って眺めてみては、背中と顔以外は自分の視界の範囲に付いていて良かったと感謝する。間違い探しの塩梅で目と指を凝らすんは、不思議な背徳感があった。こんなに近くにあるのに何も知らん。赤ちゃんが自分の足や手を初めて見つけた時みたいな、少しずつ確かめるあの感じに似ている。やわらかくて、脳が指示を出さんくても湯を弾く肌、みぞおちから下腹にかけてのライン、親指の付け根とふくらはぎの固さ、その全てに馴染みがあるのに新しい、でも違和感はない。

 そんな特異なバランスで保たれた右手が、脇の下に滑りこんだ時、指先に何かがちくりと触れた。上気せかけた額を裏返して覗き込むと、脇に二本、黒々とした毛が生えている。続けて右側も覗き込むと、同様にこっちは三本生えている。綿パンの血を見た時よりも、なんか知らんけど急速に頭が熱くなる、これやこれ、なんかこれを待っていた!高揚と上気せであちあちのうちの頭は、父親のふさふさの脇と、咲の口元のふわふわを思い出していた。
 外では母親が「あんたいつまで入ってんのー!」と怒鳴る声がわんわんいうている。
今日からうちはメスになった。
卵を生める身体になった。
と、急に理屈だけは解る。
 二度目の母の声を遮って、「もう上がるー!」とじゃみじゃみした戸の向こうに叫ぶと、慌てて茹で上がった身体を湯船から放り出した。急な外気にあたって湯気が出る自分の身体は、迫力もなく従順で、それとは対象的に湯はざんぶざんぶと波打って、湯船の底では、お味噌汁をといた時みたいに、赤いもんがされるがままに漂っとった。


          ◆


 昨日よりも五本毛が増えた身体を引っ提げて学校に向かう。やいやい言う程でもない重怠い痛みが下っ腹におるけど、こんなんでうちを納得させようとするんは浅はかやと思った。

「おはよう!」
「おはよ〜」

 同じ方面から来る愛子と咲が、今日も電車から降りてくる。向かい合うホームのがらんどうに、房をギュッと押されて飛び出た枝豆みたいにうちらは毎朝落ち合う。そこに割って入る直線的な朝陽を、愛子のおっぱいは当然みたいに遮って、動く度にわうんと揺れてはお椀型の影を作るし、咲の産毛はその色に染まって、ふわふわと所在なさげに耀く。
 そしてうちは、訳もなく今日もその両方に惹かれている。

 向かい合うホームからは、続々とおんなじ制服を着た女学生たちが降りてきて、ふたつしかない改札から迷いなく解き放たれていく。紺色の背中が、丘の上にあるレンガ調の校舎を目指して登っていく様は、夏祭りのあと、ベランダでだるんと干されるポリエステルの帯の様や。女子しかおらん坂道、そこに愛子と咲と三人で加わる。女子、女子、女子、加わったところで何も変わらん深みのない色。こんな単一の性の中で、みんなはどうやって自分を「女子」やと認識できているんかうちにはあんまり分からんかった。そんな揺るぎないもんを何処で手に入れるんか、そんな簡単に手に入るんは、昨日の夜はじめて剃った脇が痒いことぐらいなもんで、卵を生める身体がただ、急勾配に息をしているだけやった。

          ◆


 小学生の頃はいつも外で走り回って遊んでいたけど、それは活発やったからではなくて、流行りのゲームとかを買ってもらえんかったからという方が正しい。家から五分程歩いた所に大きい良い段ボールみたいなマンションが建っていて、その下に大体の王道遊具が完備された綺麗な公園があった。たぶんそこに住んでいる子どもが遊ぶ為のもんなんやろうけど、うちは神経が図太かったから、学校が終わると毎日そこに出向いては、ケードロ、氷鬼、かくれんぼと、性別のない遊びで毎日くたくたになった。
別に特定の仲良しグループとかでない、その日その場所で一緒になっただけの縁の子らと馬鹿騒ぎする。今思い返しても、いけずをされて仲間外れにされた事もないし、アニメで見たような「○○さんのエッチ〜!」みたいなこともされたことがない。綺麗なマンションに住んでいる子は、心も綺麗やったんかもしれん。
 学校では、先生は生徒を苗字にさん付けで呼んでいたし、制服も無くて、体操服はみんな一緒のつんつるてん、プールの授業も無かった。カラフルなランドセルで、何かをする時はみんな一緒やった、そんな六年間、ほんまに、わざわざ挙げることが思い付かんぐらいに、うちは性別を感じんとここまで来てしまっていた。
 運動会のリレーでアンカーやったあの子も、公園でブランコを譲ってくれたちょっと年上のあの子も、女の子やったんか男の子やったんかも思い出せん。
 そっから小四の冬に中学受験を決めて、かなり遅めの塾通いが始まった。急に始めた受験勉強、振るわん偏差値の中、親が見つけてきてくれたんが聖美女学院やった。


 聖美女学院に入学してから、うちのブラウザは強制的に一新させられた。「目指せリケジョ!」「賢くて強い女性に!」「世界で活躍する女性像!」、そんな目次で始まった中高六年間。
 自分が今女子で、いずれ女性になる生き物という前提で開かれる授業に、うちはじわじわと取り残されていった。女子女子と言われる度に、今まで存在していなかった性別みたいなもんが立ち上って、負けたらあかん存在としての男というもんが滲む。それは何か、オスとかメスとかいう話ではない感じがした。
 それでもみんなは、うちの知らん間に自分を女子やとちゃんと認識しているようで、先生の話を「やったんで」という目で聞いている。
うちはどうや、ここにはおらん男を見ずに、自分をそれと対立する女子と認めて、そんなんで良いんやろうか。自分の身体に違和感がないこと、股から押し出される血をすんなり受け入れられること、そんなチェック項目をふんふんとこなしたら女子なんやろうか。
仮に女と男が対極関係であるなら、男がおらんこの空間で、うちは何と比べて自分の細部を確かめたら良いんやろう。
 鏡がないのに自分の顔は見えん、でも知らん訳にはいかん様に、うちはここで、うちたらしめるもんを探すしかなかった。

           ◆


 ふたりと仲良くなったんは、出席番号がきっかけやった。入学式の後、割り振られたクラスに行くと、既に出席番号順に並べられた席が用意されていた。うちは窓際の列の後ろから二番目で、前には背の高いショートカットの子と、後ろには前髪をふわっと巻いたロングヘアの子が先に座っていた。
それが咲と愛子やった。
ふたりは塾が同じやったらしく、間に挟まれたうちを気遣って話しかけてくれたんが最初やったと思う。なんか特別意気投合した訳ではない、でもわざわざ嫌いになる理由もない、初めはそんな感じで一緒におったと思う。
 うちの中で「性別」というもんが存在し出してから、初めて個体として認識した女子、引いてはメスやった。


 愛子はかわいい。ほんでその事をちゃんと自覚していると思う。雨の日も風の日も、背骨まである栗色の髪はちゅるんと揺れとって、柔らかそうなシースルーの前髪は、その佇まいとは裏腹に意志があるんかと思うぐらいにブレん。本人は気にしてるみたいやけど、顔のパーツが全部○で出来てる愛子の顔は、なんか愛子にぴったりで、うちはその人懐っこい顔が、隙あらば色付きリップを塗り直すんを見るのが好きや。愛子の周りはちょっとだけ温度も湿度も高い。

 入学からしばらくしてから、そういうのが一定の子たちから嫌われるんやっていうのを知った。「大して可愛くないくせに」「あの子誰とでもヤるらしいで」、と裏で言われてるんを聞く度に、うちはその事で何も迷惑掛けられてへんのに、と思う。愛子はそれでも、そういう要らん声も聞いてんのか聞いてへんのか分からん風にご機嫌で、誰の為にかは知らんかわいいを保っている。愛子はうちに笑いかけてくれて、うちもそれに応える。
 皆んなよりちょっと大きいおっぱいも、毛一本生えてへん白い太腿も、周波数が独特な声色も、全部愛子から生まれたもんで、それに正しいも間違いもない。それが誰の為に存在していようと、そのもの自体は何も変わらんと、うちは知っとった。

 やから愛子と寝るようになってから、うちだけは「愛子はかっこいい」と言うてやる。愛子のふっくらした桃色のくちびるに、自分の薄いくちびるを重ねる時、愛子はいつも慣れた手つきでうちの頭をゆっくり撫でる。
うちはそれを程よく受け入れて、愛子の耳たぶを舌でなぞりながら、耳元で「愛子はかっこいいなぁ」と息を吐くと、愛子は「奈緒は変わってるなぁ」と言って、それまでとは違う緩急でうちの首筋に噛み付く。
うちがわざとらしく声を上げれば上げるほど、愛子の目は雄々しく濡れて、今度はうちが愛子の頭を撫でてみる。愛子は「かわいいなぁ」と愛おしそう言うから、うちはそれを聞こえんふりして首に抱きついてみせる。
 愛子の町で流れる五時半の音楽が、子どもやったうちらを見つけたみたいに鳴るんがうるさくて、うちはそれに声を重ねた。普段は揺れているだけの栗色の髪が、生きもんみたいにうちの節々に絡まって、好きでも何でもない、なんとかっていう花の匂いに喉の奥が軋む。
ただの温かい玉として並ぶ愛子のおっぱいは、隠すもんを失った途端にその神秘性をも失って、そこから地続きで連なる白くて柔らかい身体に溶け込む度、自分の骨ばった輪郭が浮き彫りになっていった。
完全に相容れへん、異物としてぶつかり合う筈の肉体に、愛子の頬はひとりでに紅くなっていく。
そんな気色の悪い姿に、うちは勤勉なまでに、目を離せずにおった。

          ◆


 咲はかっこいい。手も足もカモシカみたいに伸びていて、涼しい顎のラインと、耳の上で切り揃えられたショートカットが鼻につかんと似合っている。咲の化粧っけのない、愛子とはまた違った蒼白い肌は、その嘘の付けへん性格の一番外側の膜みたいに張り詰めていて、うちは時々不安になる。言葉も表情も、最短距離で生きてるみたいなところがあるから、周りに自然と人が集まってくるタイプの子ではないけど、その真面目さと自立心に裏打ちされた言動に、咲のことを嫌いな人の一等に挙げる子はあんまりおらん。

 それに、そんな咲の佇まいは、どうやら一部の層から熱烈に受けるらしかった。一年生の頃にはよう気付かんかったけど、学年が上がるに連れて、体育祭ではちまきを巻いて走るだけで、文化祭で執事のコスプレをするだけで、いちにこしか変わらん女の子らがきゃーきゃー言って咲を取り巻くようになった。「写真一緒に撮ってください!」「頭撫でて下さい!」「ハグして下さい!」、そんな無邪気な要求たちに、薄い眉を八の字にしながら応える咲を見てるんは、なんかこっちがむず痒くなった。
 移動教室を待っているうちと愛子に駆け寄りながら、「何が良いんやろうな」と吐き捨てる咲が、最近髪を直すためにトイレに行く回数が増えたこと、愛子が良いと言うていたリップをこっそり買っていることに、うちはちゃんと気付いとった。

 「咲ちゃんはかわいいなぁ」と言う度に、うちの首に絡まる細い腕はぐっと締まる。
うちはその直向きさにいっつも苦しくなって、おでこに軽くくちびるを当てながら、引き剥がすんを誤魔化してしまう。
でもバレてるんやろうか、咲はうちが少しでも身体を離すと、あの眉をしながら「あたしのこと好き?」と聞くから、うちは「僕とのことは誰にも内緒やで、愛子にも」と囁いて、すかさず今度はくちびるに当てがってやる。
縦にも横にも小さい咲のくちびる、皮が薄くて透けた様に肉の少ない身体と重なっていると、愛子の時とは違って、自分の身体がもの凄く穏やかで柔らかいものに感じる。
うちの唾液で濡れた咲の産毛は、日中のあれほどまでの輝きを容易に失って、書道のあとの小筆みたいにじめじめとうつる。
そこから何度も漏れ出す「奈緒くん」と呼ぶいつもよりも半音高い声は、堪らん嫌悪感と、表裏一体の愛おしさを生み出して、うちの中の「僕」を刺激してならんかった。



 この四年間、ふたりを、三面鏡のように扱ってきた。正面の鏡がない分、右側の愛子にうつる自分、左側の咲にうつる自分、そのふたつを何度も見比べては、自分の性を確かめようとした。
でも結局、初めて生理が来たあの日から、何にも変わらずにいる。変われずに、なんやろうか。
日頃、男を好きであることで女であることを派手に見せる愛子も、男を嫌うことで女であることを際立たせる咲も、うちを通している時はまた違ってうつる。やからうちもふたりの鏡なんやと、たまに思う。
 此処は女子校で、でもそれは、子どもの頃走り回っとったダンボールマンションと何ら変わっていないはずで、あの頃あそこには「子ども」という生きもんしかおらんかった。
それと同じように、ここには「女の子」だけがいる。日々「男」という概念と立ち向かう術を学びながら、成熟した子宮が備わっていたって、うちは一人称ひとつで、私にも僕にもなれた。
それぐらいうちはぬるぬると流動的で、いつだって空っぽや。

 それでも、このドーナツをドーナツたらしめるんは、いつだって、この気の抜けた穴や。


          ◆


「奈緒〜話聞いてる〜?」

ちょっとだけドスをきかした愛子の声と目が合う。

「ごめんごめん、何の話やっけ」

「ひどい〜私の大事な失恋話やで〜」

「もう聞き飽きたやんな」

咲があの眉をしながら、目で「大丈夫?」と言っている、鬱陶しい。

「今日はもう帰ろうかな」

「マジやん〜私に興味ないの〜?」

愛子は試すような目でいつもうちを見上げる。

「そんなことないよ〜大好きやんか〜」


 朝とは反対方向に伸びる影が、ホームを見知らぬ場所へと変えていく。
駅員さんがしたであろう申し訳程度の春飾り、自販機の下からのぞく十円玉、誰かが捨てたんか忘れたんか分からん朝刊、愛子の産毛と咲の胸。
朝にはうつらんかったそれらを、西日が暴くように照らしている。紺色の背中がじりじりと熱くて、もうカーディガンはいらんかもしれんなと思いながら、ふたりのことを見つめてみるけど、光でよく見えんかった。
 少しずつうちらを包む橙色が制服と馴染んでくる頃、二十分に一本しかない電車がやってくる。
母国語と外国語を繰り返すアナウンスを背に、うちはふたりを電車まで送り届ける。


「ふたりとも、これからも友だちでおってな」


 赤茶色の扉が、両端からふたりの顔を塗り潰していく。電車がふたりを連れ去る間際、何度もうなづく愛子のまるい笑顔と、あからさまに曇る咲の白い顔が見えた。
 今日でうちらは高校二年生になった。
沿道の桜は、今年もみんなの期待を一身に背負って熱せられている。
線路に被さるうちの形をした影を、車輪がただ潰していくんを見届けながら、さっき食べたドーナツがげふっと上がってくるんを感じる。
わたし、はひとり、反対側の電車に乗り込んだ。



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