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便所タオルを洗濯する

私だって、自分をいじめていた奴から貰ったタオルを便所の手拭きタオルとして愛用するぐらいの意地悪さは持ち合わせている。


中学1年生の春、私に社会の厳しさを教えたその子は、その後巡り巡って自分が独りぼっちになり、中学最後の1年間を保健室で過ごした。
中高一貫校だったにも関わらず、序盤で居場所を失った彼女は、此処で6年間過ごす事を諦め、高校受験を選択した。
そんな彼女が中学を卒業する時、「色々ごめんね」と言って緑色のタオルをくれた。
ハンカチやタオルをプレゼントするというのは昔から別れの象徴であるが、その時何となく「もうこの子とは一生会わないんだろうなぁ、このタオルを最後に全部忘れたいんだろうなぁ」とガキながらに悟った。
私はたぶん「ありがとう、もう何とも思ってないよ、元気でね」と返した。


あれからはや10年。
今でも私はそのタオルを使っている。

年に一度の大掃除、断捨離、実家を出る時、様々な取捨選択の機会をくぐり抜けて、そのタオルは今でも私のそばにいる。

もう本当に何とも思っちゃいないし、もちろん彼女を恨んだり憎んだりする気持ちなんて全くない。
でも不思議と、数あるタオルの配属先を決める時、そのタオルは必ず便所に配属される。


そんな無意識な意地悪さに気が付いたのは案外最近のことで、自分を「優しい人間に違いない」と踏んでいた私は人知れず落ち込んだ。

ほんとに嫌なら捨てれば良いし、何とも思っていないのなら台所でも何でも使ってやれば良いものを。
何て嫌な奴なのか。

そんな事をぬるぬると考えながら俯いて、今日もスマホで天気予報を確認する。

今年の梅雨は変な感じだ。
雨がやいやい降るかと思えば、真夏の様な日照りが続く。
今日もどうやら後者らしい。

洗えるもんは今日の内に洗ってしまおうと、部屋中の布という布を集めて歩く。

便所の戸を開け、少し湿ったそのタオルを洗濯カゴに回収すると、無作為に旦那さんの臭い靴下と重なった。

咄嗟にタオルから靴下を払い除けると、「これは私なりの愛なのかも知れない」と、ガキながらに私は悟った。





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