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「幻想のように儚いあなたを愛すること」の是非(ミュージカル『ヴェラキッカ』 宝塚ファン目線の感想)

 何度かふせったーで叫んだことについて、ここで一旦整理したくてnoteを書きます。考察というより、自分自身のけじめに近い内容です。勉強不足のため、TRUMPシリーズ自体に触れることは控えさせていただきます。なお、今回書きたかったテーマとも相まって、相当偏った内容です。

 観劇者それぞれのバックグラウンドによってこの作品に対して抱く感情はかなり違うと思うので、念のため私のスペックを簡単に…✍️

・『ヴェラキッカ』は劇場では2公演、配信を合わせても合計3公演しか観られませんでした。
・「繭期」は今回初体験。TLでお勧めいただいて『LILIUM』も視聴。リンクするセリフや世界観に震えたし、先日の和田さんのスペースでの「ヴェラキッカとLILIUMが対になってる」というご発言に、なるほどなぁ…と唸った。宝塚(しかも現実世界にはあり得ない男役)出身の美弥さんが“幻想”を演じ、少女達が“不老”を演じるなんて…もう私は人間不信になりそう。
・元々観劇が好きで、特にミュージカルを幅広く観てきた自負はあるけど、ホームは宝塚歌劇。
・2021年の観劇納めが星組公演の大千秋楽(現役(当時)贔屓の愛月ひかるさんの退団公演)、2022年の観劇始めが『ヴェラキッカ』初日(OG贔屓の美弥るりかさん主演舞台)。2人に対するファン歴や巨大感情については今までnoteやTwitterに書きまくってきたので省略します。

 あまりにも好きで命をつなぐ感覚で退団公演に通い詰めた方が宝塚の舞台から卒業されるのを見送りロス真っ只中という期間に、かつて現役時代の舞台に通っていた美弥るりかさんの主演公演、しかも「宝塚の退団公演」とも受け取れるような構成の『ヴェラキッカ』を観た。
 この公演を「宝塚と結びつけないで」と思う人もいるだろうし、私自身、美弥さん自身が歌劇団に未練なんてないんだろうと思っているし、区切りをつけたからこそ全然違う世界で華やかにご活躍されていることもわかっているつもりです。退団から約4ヶ月後の2019年9月末に東京會舘で行われたトーク&ライブで「生まれ変わっても宝塚には入らない。皆さんと数々の奇跡を十分経験したから」という主旨の発言をされていたことを鮮烈に覚えてる。勿論、「生まれ変わってもまた宝塚で会いましょう」と卒業のご挨拶と共に再会を約束してくれたトップスターも大好きです。私自身も3年前の退団公演の演目や、あの立場とタイミングでのご卒業について何も思わなかったわけじゃないけど、今となっては正直未練はありません。でもそうじゃないファンの人もいるかもしれない。
 何が言いたいかって、タカラジェンヌそれぞれ、ファンそれぞれによってこの界隈でのスタンスはばらばら。ファン歴もばらばら。だから、ここからは私個人としての感想となります。

1.ファンタジックでトラジック でも対等な愛でいて欲しい

 愛の物語として、自分なりにようやく腑に落ちたのは、2回目の観劇後。キャスト発表の配信の中で末満さんが書いていた、8人からノラに向けた「愛」の矢印が一方通行的に伸びている手書きの人物相関図。プログラムにも清書されて載っていたけど、これをもう少し噛み砕いて、「現実世界」と「共同幻想」それぞれにおいて、誰に誰の姿が見えていて、声が聞こえていたのかをじっくり冷静に考えたいくらい。
 ノラが一族のイニシアチブを掌握し、先導し、自分を愛させているかのように見える第一幕。でも一族の秘密を明かされる第二幕ではその逆。シオンのイニシアチブによって一族皆から向けられる強烈な愛によって、ノラが共同幻想として存在している。一族を演じる各キャストの皆さんが物語を動かしていたと言っても過言ではないほどのパワフルさ、そしてノラを演じた美弥さんの幻想のような儚い魅力。そういうピースが全て揃ったからこそのストーリー展開。キャストが全員ハマり役で、こんなにぴったりなメンバーが揃うこと自体が奇跡ともいうべき、愛すべきカンパニーの皆さん。
 ハッピーエンドと受け止めるならば「幻想の枠を飛び越えたノラとシオンの愛の物語」として解釈したいです。「共同幻想の中で愛されることは容易い。だが、誰かを愛することは簡単ではない」とノラは言っていたけれど、それならば幻想の世界を超えたなら?あまりにファンタジックな感想はふせったーに書きました。

 これは私のエゴかもしれないけど、ノラとシオンは対等な愛の関係性でいて欲しい。憐みの愛を注ぐとしても、エゴのような愛をぶつけるとしても、互いにそうしていて欲しい。


 ファンタジーに全振りした感想を抱いたまま公演期間を終えることも出来ただろうけど、やっぱり悲劇だと思う気持ちも隠せない。幻想の世界に身を投じて夢を見ることが必ずしも正解だとは思わないから。贖罪の皮をかぶった“逃げ”かもしれないから。人の死は二度ある、肉体が滅びる時と人に忘れられる時。そうは言っても、前者のノラは誰が弔ってあげるのだろう。そんな残酷性も併せ持つ作品だけど、何よりも悲劇だと思うのは、第一幕を通して何度も衣装チェンジをして、素敵な歌とダンスで魅了して、一族のみならず会場全体までをも魅了するかの如く輝いていたノラに夢中になればなるほど、その姿が幻想だと分かった時の衝撃を客席も味わざるを得なかったこと。そして夢の終わりを実感させられたこと。「ヴェラキッカ家の出来事」としての時間軸を追うこと、そして2022年1月にブリリアで観劇している自分の時間軸を生きること。どちらにおいても、心がかき乱されすぎて…。そう思わせられるほど、ノラを演じた主演の美弥さんへの当て書きがもたらす効果が強いし、残酷でもあった。

2.当て書きの強さ(性別美弥るりかの“存在証明”)

 一族だけでなく客席もノラを愛さざるをえないと唸るほどの、美弥さんの魅力。その存在を認識した時点で心が支配され、その視線を浴びた瞬間に終わりというか、そんな抗えない魅力がある人。美しさだけじゃなく、視線や仕草で人を惹きつける魅力が半端ないし、幻想か?と実体を疑いたくなるような儚い魅力を持っている。(舞台を降りた美弥さんはすごく可愛らしくてピュアででもたまにダークで独特のセンスが面白くて…この方のギャップがどうなっているのか未だわからない。)美弥さんがノラ役を承諾しなければヴェラキッカ自体が実現しなかった。そんなことまで末満さんが仰ったことが素直に嬉しくて、その時の胸の高まりがこんなにも素敵な舞台として帰ってくるなんて、エンタメが見せてくれる夢の奇跡に心が震えた。少し話は逸れるけど、末満さんがご覧になったという宝塚時代の美弥さんのお役が懐かしくなるような面影も垣間見えて、ノラは私にとって、ノスタルジーを感じさせる愛らしいキャラクターだった。 
 最後までノラの性別が明かされなかった構成も好きでした。性別も年齢も問わず、誰にでも愛されるノラ。退団後、「ジェンダーフリーの表現者」として自由に軽やかに活躍されていた美弥さんの真骨頂。誰からも愛されることは、「ノラ=ヴェラキッカの“存在証明”」だけじゃなく、「性別美弥るりかの“存在証明”」だったと思ってる。

3.当て書きの残酷さ(「宝塚の退団公演」だと思う理由)

 なんて残酷な演出をするんだろう、そして私達はなんて業の深い世界にいるのだろう、と初日に感じたショックは結局拭えなかった。でも同時に、こういう構成を描ける末満さんはすごいなぁと素直に尊敬したくなる気持ち。頭の中を覗いてみたい。どの界隈でも「推される者」と「推す者」はいるけれど、宝塚におけるスターとそのファンの関係性を把握された上での構成であればとても尊いと思うと同時に、しんどいです。私にとってのヴェラキッカは「誰かに心惹かれ、破れてしまいそうなほど愛が詰まって膨らんだ水風船が一気に弾け、その脆さに気づいた」ような作品。もっと直球で私情を交えて言えば「ヅカオタが贔屓に見る夢、特に現実世界には存在しない幻想のような男役に見る夢の終わり」として幕が下りた。夢中になればなるほど終わりは辛いのだから。すみれ色の界隈で数年生きたことがある誰もが一度は味わったであろう、この感情のジェットコースターを3時間の公演の中で体感することになるなんて。
 Twitterでもこの手のツイートがいくつも投稿されているかもしれないけど、美弥さんの出身母体の話をします。これを考えるとより沁みるし、沁みすぎて正直“アンチテーゼ”だったのかという気すらしてくる。宝塚歌劇の、その中でも男役は、幻想のような存在の最たるものだと常々思っていて、いわば究極の虚構の存在で、その姿が永遠じゃないと分かっているからこそ、その儚さがもたらす引力に惹かれるような部分がある。先日宝塚を退団された愛月さんも、最後のご挨拶で「終わりがあるからこそ美しい」という言葉を紡がれていたけど、その言葉には全てが詰まってて、それが舞台に立つ側の美学なんだと思う。一生拭うことのできない“儚い魅力”を愛する場所なんです、宝塚って。有限の美。煌めくミラーボールや華やかな衣装の影では、いつでも切なさが付き纏う。
 幻想のような魅力を持つノラが、一族から愛されるという「共同幻想」の中で存在していたこと。自分の引き際を自分で決め、自分が愛される時間を自分で終わらせること。それを聞いた一族達が嘆き悲しみ、何で?と泣く、既視感がありすぎるこの光景。『夢の終わりに』をノラが歌うまでの一連の流れは、いつかの体験がフラッシュバックしそうなほど、本当に胸が張り裂けそうなほど辛くて、寂しくて、でもそういう時期を乗り越えたから益々好きになったんだなぁと実感して、終わりが近づけば近づくほどさらに好きになって…とにかく、最近まで経験していた「自分事」として、どうしても重ねずにはいられなかった。振り返れば幸せな思い出の1ピースであろうと。これが私が「“宝塚の”退団公演」というセンシティブな表現を用いた理由です。(あと、そういう演目自体が宝塚の退団公演として上演されそう…というのもすごくわかる。)

4.誰にでも“自分だけのノラ”がいる(「幻想のように儚い存在を愛すること」の是非) 

 キャンディにとっては、王子様スタイルでダンスをリードしてくれるノラ。カイにとっては、赤系衣装にブロンドのロングヘアで、当主としての威厳が垣間見えるノラ。キャラクター毎に見えるノラの姿が多種多様な点も面白い。
 好きだな素敵だなと心惹かれる存在が現れて、自分の「推し」(宝塚でいえば「贔屓」)になるタイミングも過程も自分だけのもの。その存在へのアプローチの仕方も距離感もペースも、自分だけのもの。そんなことを考えたりもしていた。
 そして、宝塚の舞台から降りて「夢を売るフェアリー」ではなくなろうと、現実世界でも手の届かない世界に生きる皆さんへの憧憬。「幻想のように儚い存在を愛することの是非」を考えずにはいられない。愛することは、下心を持ったりリターンを望んではならないもの。ノラに愛されることを望んではいけない、とキャンディが教えられていた通り。自分の身体の一部を差し出すような、重くて、覚悟のいる行為でもある。私はノラとシオンの愛には対等な愛を望みたいけど、対等な愛なんて、まるで夢の中のようなこちらの界隈では絶対にあり得ないし、あってはいけないと思ってる。愛は実体もないし、好き勝手に叫んで気持ち良くなって、ただの一方通行なエゴなのかもしれない。でも「愛することができた」という事実に自信を持っても良いのかもしれない。ノラ自身が共同幻想の中で誰かを愛することはできなかったけど、私達はキャンディやジョーのように愛することができたのだから。(結局愛が殺意に変わってしまったけど)クレイのように、誰かを愛することで、自分自身を愛することもできるのだから。

5.夢の終わりに

 共同幻想が解けて、自身の存在が消える前のノラが残した「私は幻だったが、君たちのその愛が幻とならないことを願っているよ」と言うセリフは、幻想のように手が届かない世界の存在を愛する者達にとって、どうか救いであってほしいと願わずにはいられない。でも、夢に執着することなく、現実世界で生きてみたら。夢の中で愛した事実を幻にせず、愛せたことに自信と誇りを持って、心の中に灯しながら現実世界を生きてみたら、どんな景色が見えるのかな。
 ヴェラキッカ、最終的に私は「救いの可能性も孕んだ悲劇」だと思いました。夢が終わることは辛いけど、夢の終わりをどう受け止めるのか。何が残るのか。良い意味で価値観を壊してもらえた。夢から醒める時が来たので、これで私のヴェラキッカは一旦終わりです。この公演に出会えて良かった。大阪公演も配信決定とのことで…!そのお知らせツイートを貼らせていただき、結びとします。

【追記】多くの方にアクセスいただいてることを把握し… 大変恐縮しております。ありがとうございます。同じ宝塚ファンの中でも、各々のファン歴や感性等によって、抱く感想が全く違うと思うので… あくまでも一例ということを改めて補足させていただきます。

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