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何者にもなれなくても(「SHOW-ISMS Ver.マトリョーシカ」 )

 記憶と感情をこのまま保存できておけたら良いのにね。こんな世の中でも舞台は素晴らしいし、お芝居には心動かされて、人はときめくし、ご贔屓は最高でした。言語化することで別物になりそうで怖かったけど、人の記憶の持続性なんてたかが知れている。
 配信でも劇場でも、「もしかしたらこれが最後かもしれない」と毎回思わずにはいられなかった、特別な公演が無事に幕を下ろしてもうじき1週間。ご贔屓と呼ばせていただいている、美弥るりかさんのこと。そしてSHOW-ism 9作目の「マトリョーシカ」、今回特別バージョンとなった85分間の物語のこと。そして、良くも悪くもコロナフィルターのこと。タイムラインを埋め尽くしてしまいそうなので、こんな時こそこちらに… 

 「SHOW-ISMS」、前半のAプログラム(Ver.ドラロマ)だけではなく、後半のBプログラム(Ver.マトリョーシカ)も記事にまとめていただいて。 リンクを貼らせていただくので、あらすじや素晴らしい出演者の皆様のことは、こちらから。

 「マトリョーシカ」以外にも、歴代の素晴らしい作品が少しずつ蘇る構成。特に「ピトレスク」、舞台はナチス占領下のフランス。灯火管制下で隠れ家が軍に見つかり、明日のことさえ分からない中、黒い紙が巻かれた電球(イチジク)に向かって皆が歌う「自由の歌」の余韻…。当たり前の日常の美しさ。この公演期間中も、国内の、特に劇場がある東京の感染者数が徐々に増えており、ウイルスだけではなく人の無自覚な言動への恐怖に苛まれても、それでも公演は続く。今の状況に重ねてしまいました。(保坂知寿さん…!のりちゃんとのギャップが本当にカッコ良かったです。)

好きや憧れのその先は

 もはやこの気持ちは何ですか…? 7月28日、Bプログラム初日を見た時の「あっ、好きです…」って終始拝んでいたあの感覚。生きてるだけでファンサ、この言葉を強く強く噛み締めた夜。なんだか、ファンに成り立ての頃のような「お姿を見たら目が潰れてしまう」「軽々しく名前を口にしてはならない」…そんな衝撃に覆い尽くされてしまった初日。公演公式twitterから容赦無く発信される素敵な写真の数々、美の洪水、謎の特別企画「Hi Ruri」のAI感満載の美弥さんの声の可愛さ… これは夢…?お祭りのようで、供給が止まらなくて追いつかないよ。このコロナ禍でも、はしゃいだ感情って許される?抗えないときめきにこんなに舞い上がって良いの?…すごいですね、ご贔屓という存在。もう恋とか憧れとかよくわからないけど、好きです。きっとセルフヘアメイクであろう姿や新鮮な緑のお洋服、指揮をされる綺麗な指先、輪から離れて生徒達を遠くから見つめる瞳、自分の授業のやり方が揺らいだ時だけに見せる焦燥、「おいでいつでも 家に帰るように」と歌ってくれる優しいお声、久しぶりに拝見するダンス、全部好きでした。舞台の上で繰り広げられる物語の世界に入り込むことが好き。大好きな美弥さんに物語の世界に誘われることが好き。好きと好きが合わさると、もはやなんと形容したら良いんですかね、思わず真顔になって考えるほど。滑稽でも良いや、心が豊かになって満たされてるから。「美弥さんを好きな自分が好き」と、と思わせてくれる美弥さんは偉大です。
 美弥さんって、「イメージでは無いお役でも自分のものにしてしまう」、魔法のような魅力が在ると思うんです。それは宝塚時代もそうだったことは言うまでもなく、一度引き込まれるとしばらくその世界から離さないでいてくれるような。だから私は美弥さんのお芝居が好きで、確か今年2月の大阪のトーク&ライブの時だったかな、「7月のSHOW-ismはお芝居の要素がありそう」と聞いてから、「ようやく…お芝居が見れる…!」ってぞくぞくして、7月の到来を指折り数え、ずっと楽しみにしていたよ。
 退団から1年、本当に色々な分野でご活躍されて、最近は「ジェンダーフリー」という言葉もよく使われて。何かに捉われることなく、心のままに自由にご活躍される姿を見ていると、胸がスッとして、俄然応援したくなり、もう行けるところまで行って欲しい、ファンの手が届かなくなっても遠い存在になっても構わないと常々思ってしまうほど。それでも、新しい景色を分けて見せてくれること。好きな人が好きな世界で好きなようにされていること。こんなに嬉しくて楽しいことはないよ。活動分野が広がっても、やはり「舞台に立つ」ということへの想いは特別なような気がしていて。やってみたいお芝居として、雑誌掲載時に仰った「人間の心の奥底に眠る闇とか欲望がドロドロに出てくるストレートプレイ」、ラジオドラマご出演時に仰った「女性役でも妖怪でも魔女でも」。いやもう…思い出すだけでわくわくしちゃって仕方ないんです。舞台が好きだと言ってくれて嬉しい。バンビ先生と共に夢のような期間でした。Twitterにも死ぬほど書いたけど、「退団後初主演」「一度中止になった公演」みたいな、色んなフィルターがかかった作品、こんなに特別な要素が揃いすぎた公演が無事に終わったこと、とにかく安堵。この公演があったから毎日を頑張れて、この公演の余韻で明日も生きられる。

最後に出てくる、小さい人形の名前

 「マトリョーシカ」、初めてこのタイトルを聞いたのは3月で、中止になったばかりのミヤコレの印象から離れられなかった影響もあって、ああ、謎に包まれた様子から色々な姿が現れる、みたいな感じかな…?と安易に思っていたんです。いや、驚くほど全然違いましたね。「脱いでも脱いでも色々な姿が現れる」わけではない、「脱いでも脱いでもまた自分、まだ自分、どこまでも自分」。何をやっても自分からは逃れられない。自分以外の何者にもなれないけど、自分で居続けることについて考える日々でした。
 社会的に弱い立場の生徒が抱える苦悩に焦点を当てられて、目を背けたくなるような辛い状況が次々に語られて。金銭面、性別的観点、学歴の有無、先天性の障がい。「世の中は不公平だ」という叫びに対してバンビ先生が放った言葉、「(過去に遡ってやり直したいのなら)魔法使いにでも頼んでみたら?」こんな冷たい先生、他にいますか…?(笑)そんなクールなバンビ先生の授業は、一言でいえば「絵空事」。見る人が見れば夢物語、非現実的にも程があると思います。社会を知るためには他人を知ることが必要、だから合唱コンクールに出よう。修学旅行が中止になった、じゃあ修学旅行ごっこをして、歌って踊って世界中を旅しよう。学園祭に出てショーをしよう。どうですか。逃れられない現実世界で今、この生徒達と同じような窮地に立たされている人にとっては、バンビ先生の授業とそのおかげで成長していく生徒達への共感は難しいかもしれないとは思う。それでも、学園祭のショーのテーマを決めるためのサークルゲームで、「この学校には居場所がある」「卒業したら叶えたい夢がある」、クラス全員の共通の思いを導き出したバンビ先生。先生は、特定の生徒の問題には肩入れしない、直接助けようとしない、一見淡白に見える存在だった。常に中立の立場を保ちつつも、緻密に計算されていた教育方針の成果がこうやって現れるんだな…と鳥肌が立つ瞬間。そして、生徒達が主体的に動くようになってからは、一線を引き始めているような、知らないうちに離れていってしまいそうな寂しさもあったけど、あくまでも自分の役割を理解してしまっているからこそ、やるべきことだけをやる、間接的な教育と優しさ、それが先生の方針だったんだろうな。マトリョーシカから最後に出てくる、一番小さい人形の名前は「希望」。自分以外の何者にもなれなくても、殻を破ること、今も未来に望みを持つこと。簡単なようで本当に難しいな、と思う。それは自分自身と対峙しないと得られないものだから。
 バンビ先生については、もはやファンの皆様の数だけ解釈があるのだろうなと思うほど、人物像や心の機微はほとんど語られなくて。何で先生は教師になったの?過去に先生自身も夜間コースに転向した理由は?その理由に思いを馳せるほど、壮絶な背景を想像してしまうから辛いけれど、何度もバカにされ、踏みにじられ、後悔して、それでも何度でも立ち上がった、この物語の主題とは切り離せない生き方をしてきたのかな。それでも「教師とはこうあるべき」という概念とは一線を画した、生徒達にも「何者…?」と言われるような現実的ではない存在だったからこそ、その華やかさが良い意味で浮いてて、魔法みたいな授業としても説得力があった。最後の卒業式での「あなたがあなたでいてくれたから」という歌詞、バンビ先生の1年間の結果の全てだと思う。
 もしコロナの影響で85分バージョンじゃなければ、「バンビ先生の存在」「夜間学校が舞台」という2つの設定以外は、全く違う物語の予定だったそうですね。もしコロナがなかったら。

コロナフィルターのこと

 きっと、「コロナ禍だから配信でも伝わりやすいように(修学旅行ごっこで歌われる童謡や民謡なんて、まさにそう)」「コロナ禍だから舞台上のソーシャルディスタンスを確保できるように」という考えの元、成り立った作品だと思うんです。でも「コロナ禍だから無事に公演の幕を下ろせただけで万々歳」と、何でもコロナフィルターにかけてしまうのは正直勿体なくて。逆にコロナフィルター無しでは実現しなかっただろう内容の作品だからこそ、(こういう言い方が申し訳ないのですが)普段とは違って凝った舞台の造りはできないから、一人一人の見せ方にかかっていると言っても過言ではないんですよね。芸達者な皆様の細かい演技、表情。劇場内で観劇できたときは、もうオペラグラスが手放せなくて。(久々にオペラを長時間構えると指が…つるんですよね…//)それにしても、修学旅行ごっこ、個人的にかなり好きでした…。ノリノリで楽しいフニクリフニクラ、のりちゃんの真骨頂のソーラン節。無邪気に音楽を楽しむ皆様が愛おしくて…思い出すだけでニコニコしちゃう。平和。
 でも、とある日の配信での開演前トークで出た「フルバージョンもやりたいね、って皆で話している」というお話。このような環境下でもそのようなお話ができるほどまでにカンパニーの関係性が深まっていること、素直に嬉しくなっちゃった。そしてそして、韓国に一時帰国してコロナの影響で日本に戻れなくなった留学生。結局その描写が語られるだけで、伏線回収されないままだな、と思っていたけど、なんだ、回収されなくて良いんだ。きっと彼は当初この作品に出演予定だったソンジェさんのこと。夜間コースが廃止になる、じゃあ来年戻ってくるはずのパクのことは?という展開の時、彼も加わって、もう一度フルメンバーでマトリョーシカが上演されないかな、とやっぱり願ってしまいます。この作品に関わる皆様が望むのであれば、尚更。
 8日間しかなかったけど、初日と千秋楽は全然違った。緊張感のある初日、アドリブも加わって終わりが寂しくなる千秋楽、どちらも好きです。でも公演を重ねるごとに熟していく舞台、この過程をどんな形であれ見届けられることが何よりも幸せでした。劇場も作品も生きてる。

 舞台上と客席、この距離感が大好きで、日常世界から隔離された劇場という空間に益々恋焦がれ、そこにときめきが加わるともう最高、無敵の時間になってしまいます。ここでお決まりの「早く誰もが不安を抱えることなく観劇できて、どんな公演でも無事に幕が上がり…」などという言葉で締めくくりたくなるけれど、そんなこと、この半年でもう何万回も願ってきたし、息を吸うようにTwitterにも書き続けてる。綺麗事なんて要らないし、今まで通りの生活にはしばらく戻れない。だからこそ、エンターテイメントの根底にある希望は、絶対に揺るがせちゃいけないと強く思います。一度中止からの公演再開、千秋楽まで舞台を全うされた、今回の公演に携わってくださった全ての方々に感謝を込めて。日比谷の劇場に明かりを灯してくださったこと、劇場の感染対策だけでなく、関係者の皆様が体調管理も徹底してくださり、少しでも体調が悪ければどうなるかという緊張感の中、実施か中止の判断を毎日慎重にしてくださったこと、何度も配信をしてくださったこと、客席に人を入れてくださったこと、全部全部、ありがとうございました。何者にもなれない私でも、観劇が好きというだけで、生きる世界が彩るんです。どんな形であれ、エンターテイメントは誰かにとって絶対に必要なもの。不要不急だなんてとんでもないよ。

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