汝は偶像なりや?



アイドル偶像論

「アイドルとは、偶像である」

アイドルファンであれば誰もが、しばしば目にするであろうフレーズです。

誰が初めて言ったかも定かでない、当たり前のように繰り返されているこの言葉を何度も聞くうちに、私はどうしても小さな違和感を覚えるようになりました。

「偶像」という言葉が一人歩きして、推される対象となる個々のアイドルその人自身からはかけ離れてしまっているように感じられたからです。




信仰の代替物としての偶像

偶像とは本来、神仏を模して作られた造形物を指します。

そして偶像が世で必要とされたのは、信仰する神仏そのものが実体を持たないためでした。

目に見えない想像上の存在に祈るだけではなく、物理的にその姿を描き出すことで、対象をより近しいものとし、信仰を強固なものにする。

また、目に見える形でイメージを共有することによって、信者同士の連帯意識を強める。

そういった意味合いが、もともとの偶像には込められていました。

本来の偶像とは信仰対象そのものではなく、実像のない信仰対象に代わるもの=代替物だったのです。




概念の具現化

では翻って、アイドルはどうでしょうか。

もちろんステージに立つアイドルその人自身は、想像上の存在ではありません。この当然の事実は「偶像」の定義と異なります。アイドル本人は「実像」なのですから。

しかし、ここでは違った側面にもフォーカスしてみます。

アイドル=「偶像」という決まり文句が暗黙のうちに前提としているのは、一人一人のアイドルそれ自体がより高次の「概念」の代替者である、という構造です。

そしてその「概念」とは、「かわいい」「カッコいい」「ときめき」「青春」「活力」……そういった言葉で表されるものです。理想とも言い換えられるかもしれません。

多くの人が熱狂し、ときに救いを感じさえする「かわいい」という「概念」。

そんな「概念」を表す依代として物理世界に存在し、集団からの意識を集めるものが「アイドル」。

この構造は、神仏と偶像の関係に類似してはいないでしょうか。

非現実の彼方から、我々俗世の凡愚の艱難辛苦を救済してくれる、あたたかい光の具現化。

まさに、アイドル=偶像という論説が成り立ちます。




純度と強度

アイドル偶像論は「概念の具現化」という見方において、真理であるらしいことが分かりました。

よって、ここから先は単なる私の好みの話になります。

「アイドルとは、偶像である」

この言葉には確かに納得できたものの、個人的にはまだ好きになれません。

それは、「偶像」という言葉が様々な経緯によって一人歩きしており、個々のアイドル自身からはかけ離れたもののように感じられたからです。

一つには、「偶像」の純度の問題があります。

上述したことの裏返しですが、アイドルを概念の象徴である「偶像」としてのみ見るということは、その本人性、人間性を半ば否定することと同じです。

「かわいい」を体現してさえいれば、別にその人でなくてもいいのですから。

むしろ、デフォルメされたアイコンとしての「かわいさ」だけを追求し、その他の人間的な要素はノイズとして取り払ってしまった方が、「偶像」としての純度は高まります。

「偶像」であることと、個人としての人間性は両立が困難なのです。


またもう一つ。先ほど、偶像の効果として「イメージの共有」を挙げました。

このことはもちろん、共有する大衆の存在が不可欠です。アイドルの場合はファンのことですね。

おそらく、もっとテレビに代表されるメジャーメディアが力を持っていた時代であれば、アイドルはより本来の意味に近い「偶像」だったのでしょう。ざっくりストレートに言ってしまえば、昭和のアイドルをイメージしてください。大衆の嗜好は現在ほど多様化しておらず、「国民的アイドル」が爆発的な視聴率を獲得してきた時代です。

現代でも、アリーナのチケットをSOUL’d OUTさせ、毎日のようにお茶の間を賑わす「国民の顔」レベルの認知度を持っているアイドルであれば、それはもはや「偶像」と言って差し支えないでしょう。

「偶像」の強度を決めるのは、その影響力の大きさに他なりません。





大いなる成功と大いなる矛盾

純度と強度。これらの点においてはやはり、メジャーアイドルこそが「偶像」そのものだと言えそうです。

ただし、一方で「偶像」性を揺るがしたのもまた、メジャーアイドルでした。

というより、言ってしまえばAKBに始まる秋元康プロデュースのグループ群(総称を知らず失礼します)ですね。

同氏が提唱し、時代を象徴するブームを巻き起こした「会いに行けるアイドル」というスタイルは、当然ながらアイドルが「生身の人間」であることを前提とします。

それがここまで述べた「偶像」と真逆のスタイルであることには、詳しい説明は不要でしょう。宗教画や仏像とは会話も握手もできません。

個人的には、栄華を誇ったメジャーアイドルが一方では「偶像」性を極めつつも「生身」であること商業的な武器にし続けたことが諸々のアレコレ(抽象表現)を生んだのではないかと考えていますが、本稿でそこを深掘りすることは控えます。

ただ、「偶像」と「会いに行けるアイドル」の二律背反、これだけは無視できない事実です。

ましてやインディーズ……あえて呼ぶならば「地下」のアイドルにおいては、チェキ撮影やオフ会といった「接触」といわれる要素、さらにはファンを「認知」すること自体がその商業形態においてキーパーツとなっていますから、その在り方と「偶像」性との矛盾は、無視するには大きすぎる事実でしょう。

こうした矛盾、あるいは「偶像」性の限界とも言える問題に対して、演者もファンもともに目を瞑っているようにも思えるのは、穿った見方をしすきでしょうか。




繋がりと偶像


とあるアイドルグループで、いわゆる「繋がり解雇」がありました。プライベートでの恋愛が発覚したことを発端とするグループ脱退です。

そのこと自体については、正直に言って特段思うことはありませんでした。類似した事例を見ることもありましたし、それに続く出来事がなければ、すぐに目の前を流れていってしまうトピックだったでしょう。

私の印象に強く残ったのは、それを受けての別のメンバーさんによる言葉でした。



「アイドルは偶像だから、一般人のような恋愛沙汰は許されない」

「偶像に徹することができなければ、アイドル失格」



詳しいニュアンスは別として、主旨はこういったものでした。

ここでは、その是非を論じることは控えます。

ものすごいプロ意識だなとは感じました。

ただ、私にはどうしても、苛烈すぎるように思えてならないのです。

アイドルが絶大な人気を獲得した結果として「偶像」化することは、自然な流れでしょう。

ですが、そうではなく最初の時点から、生身の人間が「偶像を貫く」と決意して、その人ならざる形になりきろうとすることは、もちろん立派な覚悟ではありますが、過酷すぎる道のりに感じられて仕方ないのです。



アイドル戦国時代と言われたのも過去のこと、今や地下アイドル界は過当競争のレッドオーシャンを極めています。

「かわいい」が氾濫しているのです。

果たしてその中で、「偶像」を貫くことは成立するのでしょうか。

そんな疑問を抱いてしまいました。



とはいえ、件の方も全てのアイドルに「偶像」としての生き方を要求しているわけではありません。

よって、ここでの私のぼやきも大概な的外れでしょう。

全くもって余計なお世話ながら、この業界の状況下でその矜持を貫くのは相当な茨の道ではないかと、外野の分際で少しばかり気になってしまったに過ぎません。





オタク黙るべし

ただ、是非は論じない……と言ったのは、アイドル本人サイドの話です。

これら「偶像」議論について、私個人が明確に非を突きつけたいものもあります。

それは、ファン(と呼ぶべきかも疑わしいですが)サイドの態度についてです。

「近頃のアイドルは品性の低劣化が著しい。偶像としての自覚を持つべきだ」「アイドルのプロ意識と質が低下している」

というような主張を、短い期間でも一度ならず見かけました。



いや、違うだろ、と。

品性て。

何目線なんですか。

やめましょうよ、軍隊じゃないんですから。



世にひしめくアイドルの全員が同じ会社に所属しているなら話は別ですが、そんなわけもないのに「近頃のアイドル」と雑にひとまとめにして、やれ品性だやれ自覚だと、ナンセンスとしか言いようがありません。自分が雇用しているわけでもあるまいに。

そんな人たちは結局のところ、自分の期待や思い入れが裏切られたこと、そうした有形無形のサンクコストに対して、「アイドルとは」のように主語を極大なものにすり替えることで鬱憤を晴らそうとしているに過ぎないのでは、と感じます。

大義や義憤のフリをした、外野からの私怨の八つ当たり。私が最も嫌悪するもののひとつです。



だって、ストイックに頑張ってるアイドルも信頼に値する人格者のアイドルもたくさんいますもの。

知りませんよ、あなたのお好きな界隈の荒れっぷりなんて。

そんな、我が物顔で全オタクの代表者のような顔をされましても。


これに尽きます。




いやはや、偶像というワードから思うままに連想を広げていったら、いよいよまとまらなくなってきました。

この先は個別の推しの話になるので、ここでいったん区切ることにします。この期に及んで続き記事なんて誰が読むんだよ、という話ですが。

というわけで、前編はここまで。





アイドルとは何者か、私は何をなぜ推しているのか……という不毛そのものにも思えた脳内問答に対して、あるお方はこれ以上ないほどに簡潔に、そして強烈な答えをその身によって示してくれました。



迷いを霧散させる、推しを超えた導き手たる存在。

全てを忘れて信じられる、光そのもの。



それもまた、我が王でした。







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