諦観と執着の狭間に
どんな人間でも、諦めと執着を持ち合わせている。
理由は単純明快で、両手で掬える量は決まっているからだ(俗にそれは"キャパ"とも呼ばれている)
突然だけど、自分はかなり諦めるタイプの人間である。今思えばその兆しが見えたのは思春期真っ只中の15歳の頃だった。なのに神様は残酷な事に、自分をやればある程度こなせるタイプにしてしまった。だから諦めても他に道はあるし、別に痛手なんかではない。別に痛手なんかではないからすぐ諦める。本当は"他"とか"別"とかもう懲り懲りだ。
兎にも角にも、今すぐにタイムマシーンに乗って15歳の自分を殴りに行きたい。
今回はそんな"執着"と"諦観"をテーマに書いていきたいと思う。
目次
諦観の兆し
芽生えた執着心
失って初めて気付く系の僕
1. 諦観の兆し
当時の中学時代、自分はサッカー部に所属していた。レギュラーとして主力選手であったし、大会でも県大会の上位に食い込むくらいには奮闘していた。そして中学3年生になると引退前の最後の大会が必然的に訪れる。そのタイミングで人生の中で初めて"諦める"経験をした。
最後の大会前の練習での出来事だった。自分は「試合前日であるからこそ、もっと実践的な試合型式を長時間やろう」とチームの主将に声をかけた。だが主将は「明日に備えて軽く動こう」と突っ返しあまりボールを蹴らないようなメニューで進めようとした。「気持ちを上げたり、戦略的イメージをつけるためにも実戦練習をするべきだ」という言葉も虚しく、主将は自分の意見に聞く耳を持たなかった。せめてその理由や意見を互いにぶつけて、納得したかった、だが実際はそれすら出来なかった。「これ以上何をやっても無駄だ」と、ここで自分は初めて"諦めた"という事を実感した。そして文字通り"落胆"した、帰宅後に暗い部屋で一人で静かに感嘆した。
2. 芽生えた執着心
よく元恋人のSNSを見てしまうなんて人がいる。不服にもこれには自分も大きく該当してしまう。好きだった相手に対して気持ちが薄れて別れてしまっても、どうなっているか気になり何故か追ってしまう。これは典型的に"悪い執着"だ。もちろん好きになった時は"執着"というより、その人のためにという気持ちがあった。反対に「その人じゃなきゃだめだ!」という強い"こだわり"とも呼べる何かである。しかし自分の中で顕著な"執着"は圧倒的に"悪い執着"だった。
ちなみに、"こだわり"と"執着"には以下の違いがある。
・こだわり = あるものに心が囚われること
・執着 = あるものに心が囚われて、離れられなくなること
殊に、何か離れなくてはいけない場合に"執着"という言葉が登場してくる。
正直この二つの言葉には共通して、何かに囚われている心には変わりはないし、たとえそれが"執着"だったとしても悪い事なんて本当はひとつもないんだ。
3. 失って初めて気付く系の僕
これはクリープハイプというバンドのボーカルである尾崎世界観が
tellingという媒体に寄稿したエッセイで使用されている言葉である。
そう、ドラマや映画でよく見るアレ。個人的にはほんと共感しかないのだけれども、現実的として捉えた場合は実に由々しき問題なのだ。なぜなら失わないと真価に気付けないなんて、人生詰んでいる以外の何ものでもない。
最近、執着について考えている際、以下の事に気付いた。
自分の"執着"は失ってから初めて気付くことをトリガーとしている
そしてそれは、既に失っているものに囚われて離れなくなっているという事を意味している。そんなどうしようもない自分にすら、どこか諦めてしまっている節がある。もし同様にとりわけ失ったものに対して強く"執着"が生まれてしまう人がいるなら、"諦める"力を利用してほしい。
失って初めて気付く執着を、優しく諦観してあげること
少しでも同じ経験をした事がある人は、生まれてしまった"執着"を優しく諦観してあげてほしい。言葉にするのは簡単だけど、やるとなったら意外と難しい。
綺麗事を並べたいわけではないが、ただそうして一つずつ"執着"を諦めて成仏させてあげる行為が"成長"と呼ぶに値してほしいなとは常々思う。
失って初めて気付いてしまっても良いじゃないか。むしろ人生そればっかなのかもしれない。ただ一つ言えるのは、「僕らはいつだって不完全だけど、不完全だからこそ愛おしい」って考え方は、とても人類愛に溢れていて素敵じゃないかという事。
もし自分が、友達が、家族が、恋人が何かを失ってから初めて気付いたとしても、そっと優しく諦観できるように支えてあげて欲しいし、自分もそうしていこうと思う。
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