シンエヴァの扱い方(ネタバレあり)*移転記事
*はてなブログからの移転記事です。様式をベタでコピペしているので非常に読みにくい可能性があります。
ネタバレあり。誰も見てないメモ帳のようなものだけどこの映画は火薬庫なので一応注意喚起しております。
とはいえ世界観の考察などは、とある事情により一切行いません。
本文
私は目下30中盤のまさにエヴァ直撃世代なのだけど、これまで特別エヴァというコンテンツ、おそらく「コンテンツ」と呼ばれることは庵野秀明は許せないと思うがあえてそう表現する、にハマった時期もなく、映像エンタメ好きとして教養程度に見てきた(まぁエヴァを「教養程度に知る」という行為のハードルが異常に高い作品なわけだけれども)ぐらいで、だからこそ今頃になってシンエヴァの話をするわけであるが、一方で私ぐらいのレベルがエヴァの最も「ちょうどいい客」と庵野秀明は思ってくれるんじゃないかな、と感じた映画だった。
この映画を見て最も違和感を感じたのは、終盤ゲンドウが計画の動機について独白する場面である。これまでのエヴァの文法からいえば絶対にありえないシーンだ。というか映画好きなら誰しも嫌いな「お気持ちをセリフでだらだら解説させるシーン」なのだ。庵野秀明も絶対に嫌いなはずだ。
「エヴァンゲリオン解答編」とでも言おうか、こんな分かりやすくチープなまとめ方をしている一方で、世界観は相変わらずやれ精神と身体の浄化だのアディショナルインパクトだのやたらめったら複雑で専門用語を畳み掛けてくるセリフ回しでQ以上の難解さだ。要するに、不自然なほどわかりやすい表現といつもの庵野節が奇妙に同居している。
そもそもの物語構造も不自然なほどわかりやすい。ミサト=ホームから分離されたシンジがQでの出来事と第3村の暮らし=アウェイを通過することで大人となってミサト=ホームに帰り、新たな地位を得て「父殺し」をする。ギリシャ神話からスターウォーズ まで使いに使われた極めてスタンダードなオデッセイである。
これをどう見ればいいのか。とはいえ、エヴァの見方には明快な解答がある。押井守のエヴァ評だ。
ひたすら映画を見まくるブログ 様
https://type-r.hatenablog.com/entry/20121205
エヴァは庵野のお気持ち表明であって、それ以上もそれ以下もありませんよ、と。
要するにフェリーニの「8 1/2」なのだ。しかしフェリーニと違って庵野が不幸だったのは、ただのお気持ち表明が世間に違う形で、はっきりいえば今盛んに行われている「世界観考察合戦」のような形で消費され続けてしまったことだ。これは庵野にとってはおそらく、昔ノリで撮ったイタタな黒歴史動画がネットに残ってネタにされ続けてる、みたいな類の苦しみだったんだと思われる(実際鬱になった)。
それを踏まえて「難解な世界観描写と不自然なほどわかりやすい表現の同居」という、この映画特有の性質から庵野のお気持ちを察してみよう。
といっても、これについても庵野は明確にメッセージを発しているように思われる。
「となりのトトロ」がそうだ。第3村には「となりのトトロ」のポスターが貼られていて、スタッフロールでもジブリに「となりのトトロ」で画面協力を仰いだことがご丁寧に明記されている。これを単に第3村の風景が「となりのトトロ」のオマージュであるという解釈で留めるには、扱い大仰すぎる。「となりのトトロ」でなければならない強い意志を感じる。
そこで想起されるのが、宮崎翁と鈴木敏夫が「となりのトトロが消費される続けること」について述べたインタビューだ。
トトロを何度も見ることには断固反対(有料記事)
https://twitter.com/courrierjapon/status/1330986745488236546?s=21
(これ以外にももっと昔に宮崎翁がトトロを何回も見てる人を批判的に語るインタビューがあった気がします)
また宮崎駿は、彼自身の中でさつきとメイはとっくに大人になっていて結婚して子どももいると語っている。
にもかかわらず我々消費者と金曜ロードショーは30年以上もの間さつきとメイをこどものままでいさせ続けている。
「エヴァの呪縛」とはこういうことである。
これが庵野のお気持ちだ。14年たっても子供のまま、アスカが大人になれない、エヴァの呪縛をかけた呪術士はお前ら(我々、客)だよ!!ということだ。
これを踏まえて「難解な世界観描写と不自然なほどわかりやすい表現の同居」から庵野のお気持ちを察するに、
君たちの好きな難解な世界観を用意はしたよ。でもそこには中身なんてなにもないことが分かっただろう。だからこれを解釈するためにシンエヴァをおかわりしてくれるな。俺の言いたいことはこれ以上なく分かりやすく伝えるから1回で十分だ。
ということじゃないかな。
つまりこの映画の正しい見方は、難解な世界観に頭を悩ませるのではなく、一回観れば理解できる、分かりやすく直接的な表現を追いかけていればよい、ということだ。
たとえば
・単純な通過儀礼の物語構造
シンジは(これ以上なく)明確に大人になった。これは我々サイドに対する大人になれ、という説教(旧劇)というより、むしろシンジ=庵野自身の「ぼくは大人になりました」というお気持ちを感じた。
・シンジの恋愛
初恋相手=アスカは14年たって他に相手=ケンスケが出来ている。あくまで個人的にだが肉体関係の示唆さえ感じる。(アスカとケンスケの間に流れる雰囲気は大人から見るとそうとしか思えない)。まさに生々しい現実の初恋。さらにアスカはクローン=創造物(=2次元の女あるいは初恋幻想の中の女)だった。しかしシンジはそれをポジティブにふっきって生身の女=マリと共に歩めるシンジ。マリは庵野嫁がモチーフで、昭和カルチャーが好き、母性があり、大人で才女(で巨乳で眼鏡)。庵野の理想の女になのだろう。嫁に対する感謝と愛情表現でもありますかね。イタイとしか言いようがないが分かっててやってると思います。「僕もそういう境地にたどり着きました」ということではないかな。
・「ニアサーも悪いことばかりじゃない」
ケンスケのセリフ。つまり、「大人になるのも悪いことばかりじゃない。」
・宇部新川駅
庵野の電車好きは有名ですね。ラスト実写になるのは、これもおまえら現実に出て行け、というより、庵野自身が現実で頑張ります、シンウルトラ楽しみにしててねという表明かなと。ちなみにラストでアスカがひとりでいるのを気にしている人がいましたが、「こんな女現実にいたら友達いないに決まってるだろ」という庵野のお気持ちだと勝手に解釈してます。
・「他人の命を背負えるほど成長したのか」と神木隆之介
ゲンドウ。これはトトロと合わせて庵野が実は1番言いたかったことじゃないかと思っている。シンジ=庵野が背負いたい、継ぎたい他人の命とはなにか。それは宮崎駿ではないでしょうか。これは宮崎駿に対するメッセージ、「あなたも長くないでしょうが、私が継いでいきます。やっとその覚悟が出来ました。」ということじゃないかなと。大人シンジ=神木隆之介で終わらせるのも、声優を使わず俳優に声を当てさせる宮崎駿へのメッセージかな、と。
・全てのエヴァンゲリオンを終わらせる
もうエヴァというコンテンツを作らないし作らせない。
以上
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