小説・鯨の悲しみが止まらない(第3章)

死んで生きる
 
いつの間に主導権を握ったのか、そこそこ貫禄づいた一頭が、座礁に好適な景勝の海辺を見つけたとばかり、浅瀬に向かって突進したのだ。
三方の山を背にして、海洋へ開けた「大浦」は近隣の有名な大砂丘に連なって、打ち寄せる群青の波が際立ち、太古より人も鯨も魅了してきた。今まさに、我々一行もと虜(とりこ)になろうとしている。
 しかし、海洋汚染の告発という任務を果たすのに、環境の良い浜を選ぶのはいかがなものか。私は懸命にみんなを押しとどめ、回遊を続けようと説得したが、連帯意識の強い鯨の習性は変えられず、のっぴきならない事態に、私もついに従わざるを得なかった。
 ワシ 「ヒマラヤの頂上に、鯨の耳包骨の化石があった。過酷な地上での生存に耐えかねたお主らの先祖が、安息を求めて海鳴りの方角を探ったのであろう。今また、海洋生物存亡の時に直面して、みんなが生きていくのを護るために犠牲の道を選択した。天に昇る資格はあるぞ」


 陸地に住んでいたことが信じられないほど海に馴染んだ鯨は、もう太古の生態に戻りたくとも叶わぬ身になった。座礁するとたちまち皮膚がカラカラになり、体の重みで肺は潰れ、あっけなく死んでしまう。私もそうなったのだ。

思い起こせばフィンに巡り合うまでの私は、良質な遺伝子を成熟した配分することに使命感を持っていた。強健で能力の優れたものは、多数のメスと交わり子孫繁栄に貢献する義務がある。だが、フィンに海洋汚染の恐怖を教わってからというものは、毒まみれの遺伝子をもらった子孫の暗い将来が思いやられて、種の保存という作業をきっぱりやめた。本音を言えば、成熟メスが子育てをしている花園を次々に訪れ、子種を蒔いて回る楽しみも捨てがたいものがある。

血気盛んな頃の私は、群れて行動するオスマッコウの中で、孤独な旅と漁を好む異端児であった。道中、近寄ってきた年配者に、一人では寂しかろう、花園に連れて言ってやろうかなどと、からかわれたりすると、ムキになって寂しくなんかないぞ、と言い返す。そのくせ、頼もしいオスぶりだと言われたい一心で、こっそり花園を探し回る。たどり着いた先が、シワシワの母親たちと蓮っ葉な娘たち、そして騒々しいメス孫でいっぱいという、とんだ花園に気落ちすることも。

幼少の頃から早熟だと言われた私は、乳離れも早かったという。容貌・体型ともに不恰好なマッコウの中で、母は小柄でふっくらした容姿に恵まれ、いつも愛の標的であったようだ。その母に似ないで巨体に育ち、武闘派の趣を備えた私は、父の血脈を引いている、と言われたものだ。

母は、飾り気が無く、力強かった父の話を引き合いに出して、やや浮ついた性格の私を叱った。私と五歳違いの長男を惨殺したシャチの群にただ一頭で復讐に出かけて死んだという父。傷心の母は気ままに泳ぎ回る次男の私を連れ戻しては、シャチの怖さを吹き込んだ。

オスは成長するにつれ、家族との絆を断ち切るのが鯨世界の掟である。母も私も従わざるを得なかった
数十頭が集まった少年組、さらに青年組を通して鯨同士の付き合い方や、外敵からの避難方法、言葉の発信・音波の受信などを学んだ。とりわけ、言語の才能を磨いたことが、のちのちフィンとの交際や、鯨会議での交流に大いに役立った。
この時期、習得した知識は多かったが、何をするにも二頭は一緒と言われるほど親密な友を得たことも私の自慢である。冒険好きな私に、危険な場所は避けるよう忠告していた親友が、不覚にも海底を漂っていた漁網に絡まり、息を詰まらせて死んだ時は、後を追って死にたかった。私の孤独癖はこの事件以来である。
壮年になるまで群れを離れてはいけないという決まりを無視して、大海洋を我が物顔に回遊し、獲物をむさぼり食い、交尾に精力を注いだのも、あの悲しみを忘れたいからであった。

鍛え上げた体と格闘技を実戦に生かしたくてウズウズしていた私に、挑戦してきたそそっかしいのがいた。
その日、海は穏やか過ぎるほどの凪(なぎ)であった。うねりに身を預けていると、とろけるような眠りに誘われる。怠け心を楽しんだ後、体に新しく湧いてきた力を尾びれに集約し、思いっきり海面を叩いて、久しぶりに大深海まで真っ逆さまに降りて行く。垂直降下はマッコウの特技だ。
闇に潜み、辺りを窺うと、殺意を感じた。鋭い一撃がきた。間髪入れず二撃、三撃。ここはお前の縄張りじゃないぞ、とばかりに、清閑な海水をやたらかき回す。自己主張の強いやつだ。もっとも身辺に危険が迫れば私だって黙ってはいないが。
目玉は自由に動くが首が回らないマッコウの体型は、素早い逆襲には不向きだ。幸い、殴打は警告を意味する程度のもであった。私は怯えたふりをしてその場を離れ、大きく回り込みながら音波で敵を突き止める。やっぱりイカだ。それも「深海の妖怪」として、かねがね警戒していたやつではないか。.

私が知る限り、海洋中どこを探し回っても鯨の大きさに勝る生き物はいない。その我らを差し置いて大王を名乗るとはどういう魂胆か。いずれは対決しなければならない宿命だった。そのうえ、大切な餌食だから敬遠するわけにはいかない。しかし、侮ってもまずい。

戦場は暗く凍える大深海である。どんなに息を詰めても潜りに耐えられる時間は百分だ。もし、奴の太く長く、しなやかな手足でがんじがらめにされて、浮上が遅れたら最後、マッコウ末代までの恥さらしになってしまう。これはもう真っ向から一気にくわえ込むほかに策はない。

まずもって一瞬の隙を衝く。そのためには、こちらが間抜けを装い、怪物の出現に泡を食って逃げ出すふりをして急浮上、深々と息を継いで反転し急降下。口から音波を浴びせて、敵と地形の様子を瞬時に認識すると同時に、相手を痺れさせ、腹部の先端から、一気飲みの「口撃」に移った。
まさかの急反撃に妖怪め、くわえ込まれながらも、手をひらつかせ、我が輩の口周辺にピタピタ、頭部にペタペタ吸い付きおった。

これまで捕食してきたのは、胴体が数メートル級で格別のことではないが、十メートル級になると手強い。まして、十八メートル級とくれば、まさに食うか食われるかかの死闘だ。言い伝えによると、手足も入れて四十五メートルを超える奴も見かけたというから、こんなの大王では無く大魔神だ。関わり合って命を落とすのだけはご免こうむる。 

イカはとらえどころがない。ニョロニョロまとわりつく。差し渡し五センチものイガイガ付き吸盤で、眼球を吸い取られそうになったこともある。身体いっぱいに今も残る輪印は吸盤による傷痕だが、私はこれを「イカの勲章」と言いふらしている。
腹部攻撃が成功して、ぐったりとなった獲物を加えて急ぎ浮上。溜め込んだ息を吹き出す際の排気音と、イカともどもの落下音は、四海に響き渡り、水柱も天に届きそうであったと、傍観した仲間たちが、大袈裟な口調で語ってくれた。
大王イカは手強い相手だが、われわれの好物だ。メスの親鯨や子クジラに振舞いながら、この餌食との闘争がどんなに激しかったかを語ったら、恐怖のあまり食べたものを吐き出すものもいて、鯨にべたついて、餌をねだる空腹な海鳥の群れを喜ばせた。

妖怪征伐の快挙は私に慎みを忘れさせ、一千キロの彼方まで聞こえるような
雄叫びを水中で発信したので、鯨族はもちろん海洋哺乳類にまでも知れ渡った。
それ以来、シャチ軍団も私を避けている気配だったが、イルカの群れはすれ違った際、わざわざ旋回してきて私を取り巻きキーキー興じたものである。イルカを可愛く思ったのは、この時からである。

鯨帝国を樹立し、独裁の野望に燃える愚かな鯨を圧倒したことや、イカの首領征伐で名を高めた私に対して、花園を支配する巨頭たちから誘いが掛かった。
「私はよる年波で群れの面倒をみるのが限界。後を引き受けてくれないか」
「貴公の名声は私の権威を著しく低下させた。いさぎよく主役の座を明け渡したい」

五大洋でまだまだ見聞を広めたい考えの私は「せっかくのお申し出、名誉に過るが、思うところがあり」と丁重に事態した。軽はずみな仲間が、大海洋規模でこのやりとりを発信したものだから、七洋に散開するオス鯨たちから異口同音に「なんという気高い理想の持ち主だ、ぜひ立ち寄ってほしい」と返信してきた。
私の英雄気取りが、さらに高揚したのは、言うまでもあるまい。
(続く)

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