ケイト・ブッシュ 『Hounds of Love』徹底解説
『Hounds of Love』は1985年9月16日にリリースされたケイト・ブッシュの5枚目のスタジオアルバムであり、彼女のキャリアの中でも最も商業的に成功した作品です。リリース当時、このアルバムは批評家から絶賛され、ケイト・ブッシュの音楽性と創造力が最大限に発揮されたアルバムとして高く評価されました。
前作『The Dreaming』
前作『The Dreaming』(1982年)は、ケイト・ブッシュ自身が初めて完全にプロデュースを手掛けたアルバムでした。このアルバムはその革新性と実験的なアプローチで評価されましたが、商業的には期待ほどの成功を収めることができませんでした。このため、次のアルバム『Hounds of Love』の制作において、ケイトはさらに自らのビジョンを実現するための手段を講じました。
制作背景
ケイト・ブッシュは、自らのクリエイティブな自由を確保するため、親の農場に24トラックの録音スタジオを設立しました。このスタジオは彼女の実家の庭に位置しており、ケイトはここで制作の全過程を自分で管理しました。スタジオの設立により、彼女は時間的制約から解放され、じっくりと制作に取り組むことができました。制作には18か月を要し、そのうち12か月はミキシングとオーバーダビングに費やされました。
『Hounds of Love』はA面の「Hounds of Love」とB面の「The Ninth Wave」という二部構成になっています。A面は個々の楽曲が主体であり、B面は一連のコンセプトに基づいた組曲形式です。A面の楽曲は愛と恐れをテーマにしており、より直接的なポップソングが並んでいます。一方、B面の「The Ninth Wave」は、海に漂う女性の視点で描かれた連続したストーリーを持つ組曲で、より実験的で深い内容となっています 。
各楽曲の詳細分析
1. 「Running Up That Hill (A Deal with God)」
ケイト・ブッシュの確固たる代表曲の「Running Up That Hill」は、Cマイナーというポップソングとしては珍しいキーで作曲されており、曲全体に緊張感と不安感が漂っています。イントロからの当時最先端のフェアライトCMIシンセサイザーの短い下降フレーズが、曲のフックとなっています。
「Running Up That Hill (A Deal with God)」の歌詞は、男女が互いの役割を交換してお互いの視点を理解する難しさをテーマにしています。ケイト・ブッシュは、男性と女性がそれぞれの立場を体験することで関係の中の誤解を解消できると考え、このアイデアを「A Deal with God」(神との取引)として表現しました。しかし、宗教的な国々で放送禁止になることを避けるためにタイトルを変更せざるを得ませんでした。当時、彼女のレコードレーベルは「神」という言葉がタイトルに含まれていると、スペイン、イタリア、アメリカ、アイルランドなどの国々で放送が禁止される恐れがあると懸念していました。そのため、最終的に「Running Up That Hill」というタイトルに変更されたのです。さらに、「ストレンジャー・シングス」シーズン4でこの曲が使用されたことから、そのドラマが放映された時にはチャートにも再びランクインし、新世代の支持も獲得しました。
2. 「Hounds of Love」
「Hounds of Love」の目立つ要素の一つは、力強いドラムリズムで、曲の冒頭から力強いビートが響きます。また、弦楽器とシンセサイザーの巧みなアレンジも特徴的で、この二つが一体となって独特のサウンドを作り出しています。弦楽器は曲のドラマチックな部分を強調し、Fairlight CMIシンセサイザーは80年代特有のデジタルサウンドを提供しています。1957年のホラー映画『Night of the Demon』のサンプル音声が導入されています。この映画からのサンプルの使用は1985年、当時かなり珍しいものでした。またケイト・ブッシュの強力なボーカルもこの曲で味わえます。
またMVもこの曲は注目すべきです。ケイト・ブッシュが監督した「Hounds of Love」のMVは、アルフレッド・ヒッチコックの映画『39階段』にインスパイアされています。その中でヒッチコック自身が映画でよく行っていたカメオ出演(短い出演)を思わせるシーンがあります。
3. 「The Big Sky」
ギタリストのアラン・マーフィーとベーシストのユースが参加しており、ロックンロールの要素を取り入れたエネルギッシュなサウンドが特徴です。曲の制作過程で多くの変更が加えられ、最終的なバージョンは非常にダイナミックで多層的なサウンドになっています。曲の最後の部分での叫び声は非常に印象的です。
4.「Mother Stands for Comfort」
この曲はシンプルなドラムパターンとピアノコード、しなやかなダブルベースのメロディーが特徴的です。この曲の多くのサウンドはおそらくフェアライトシンセサイザーによって提供されています。ブッシュは冷たいシンセサイザーと機械的なサウンドを使うことで、対立する感情を表現しています 。
母親が子供を守るためにどこまで行くのか、そしてその愛が時にどれほどの犠牲を伴うのかというテーマが、この楽曲には込められています
5. 「Cloudbusting」
「Cloudbusting」は父ヴィルヘルム・ライヒとその息子ピーターの関係を描いています。ヴィルヘルム・ライヒは「オルゴンエネルギー」という理論を提唱し、これを利用して雨を降らせる「クラウドバスター」という装置を開発しました。歌詞の中で、ピーターは父との実験の思い出を語り、その中で感じた喜びと後の喪失感を表現しています。曲の冒頭で、「I still dream of Orgonon(今でもオルゴノンの夢を見る)」と歌われている部分は、ライヒが研究を行っていた場所を指しています。サウンドはメディチ四重奏団の弦楽と行進曲風のドラムが特徴的です。父と息子の関係とその悲劇的な結末を描いていてしっかりと作りこまれた物語として昇華されています。この曲のMVには俳優のドナルド・サザーランドが出演しており、ビジュアルと音楽が一体となった作品です。
6. 「And Dream of Sheep」
「The Ninth Wave」と呼ばれるコンセプト・アルバムの後半に位置する曲です。このアルバムの後半部分は、海に漂う女性の視点から描かれた一連の楽曲で構成されています。シンプルなピアノの旋律を主体とし、ケイト・ブッシュの感情豊かなボーカルが印象的な曲です。バックグラウンドには海の効果音や低い音のドローンが挿入されています。その他にもカモメの鳴き声や断片的な声のサンプルが挿入されています。歌詞の中には主人公が海で生き延びようとする奮闘を描かれています。
7. 「Under Ice」
冷たく暗いシンセサウンドが特徴のこの曲は、氷の下に閉じ込められる恐怖を描いています。ケイト・ブッシュのボーカルは、ストリングスの不気味な旋律と緊密に結びついています。ストリングスはフェアライトCMIで生成されたもので、氷のような冷たさを表現するために低い音域で演奏されています。氷が割れる音や水中での動きを模した効果音が効果的に使用されていて、曲全体の音響空間は非常に広がりがあり、リバーブとエコーが効果的に使用されています。
8. 「Waking the Witch」
曲の冒頭にはヘリコプターの音が挿入されており、これはピンク・フロイドの「The Wall」から借用されたものです。この曲は魔女狩りをテーマにしています。曲中で描かれる女性は、犯罪を犯していないにもかかわらず、魔女として迫害され、水に沈められる試練にかけられてしまいます。多層的なボーカルと不安定なリズムで不気味な仕上がりの曲になってます。
9. 「Watching You Without Me」
この曲にはダニー・トンプソンの重たいベースラインが特徴的で、楽曲の底流を形成しています。ベースは曲全体に深みと重量感を加え、シンセサイザーの冷たい音色と対比をなしています。また、リズムセクションにはメトロノームのような正確なドラムパターンがあり、これが楽曲の緊張感を維持する役割を果たしています。
歌詞の中で主人公が自分の家で愛する人を見守りながら、自分が見えない、聞こえないという状況を描写しています。後半部分には、局長が一転し、インド風の音楽要素が取り入れられています。具体的にはシタールやタブラのような楽器の音色をシンセサイザーで再現し、伝統的なインドのリズムや音階が組み込まれています。曲の後半では逆再生されたボーカルが効果的に使用され、断片的な会話や囁き声も挿入されています。この曲はアヴァンギャルドなケイト・ブッシュの魅力を堪能できる作品です。
10. 「Jig of Life」
「Jig of Life」は、アイルランドの伝統音楽の要素を取り入れた楽曲で、命の儚さとそれを守るための闘争を描いています。この曲には、アイルランドの伝統楽器がふんだんに使われています。
まず、フィドルとウィッスルという楽器が使われています。フィドルはアイルランドの伝統的な弦楽器で、バイオリンに似た音を出します。このフィドルの旋律が曲のテンポを上げ、生き生きとした雰囲気を作り出しています。また、ウィッスルは高音の笛で、軽快なリズムを提供しています。
次に、ボウランというフレームドラムとブズーキという弦楽器も使われています。ボウランは曲のリズムを強調し、力強いビートを提供します。一方、ブズーキはギターに似た弦楽器で、その独特の音色がアイルランド音楽特有の雰囲気を一層高めています。
さらに、ユリアン・パイプスという伝統的なバグパイプもこの曲に使われています。この楽器はメロディアスで哀愁を帯びた音色を持っています。これらの楽器が組み合わさることで、「Jig of Life」は非常にダイナミックでエネルギッシュな楽曲に仕上がっています。
11. 「Hello Earth」
広大な宇宙と地球の美しさを描写したこの曲は、静かで荘厳なサウンドスケープを持ち、哲学的なテーマが特徴です。曲の中盤にはジョージアの民謡「Tsintskaro」を基にしたコーラスセクションが含まれています。この部分はリチャード・ヒッコックス・シンガーズによって演奏されており、ケイト・ブッシュがヴェルナー・ヘルツォークの映画『ノスフェラトゥ』のサウンドトラックで聴いたものを再現しています。また、歌詞の内容に沿った嵐がアメリカ上空で発生する様子を描写する効果音が挿入されています。
12. 「The Morning Fog」
「The Morning Fog」は『Hounds of Love』の最終トラックで、アルバムの「The Ninth Wave」セクションを締めくくる曲です。歌詞の中には希望と再生のテーマが鮮明に描かれ、明るく優しいサウンドになっています。
各曲の歌詞の和訳はこちらの記事にまとめておりますので、ぜひ確認してみて下さい。
評価と影響
リリース当初から『Hounds of Love』は大きな賞賛を受け、今でも多くの「最高のアルバム」リストに名を連ねています。こないだ発表されたApple Music 100 Best Albums に見事50位にランクインしています。
それとこのアルバムはエレクトロニックミュージックの進化にも大きな影響を与えました。フェアライトCMIやリンドラムなどの最新技術を駆使し、アコースティック楽器と電子音楽をシームレスに融合させた点がこのアルバムのもっとも画期的なところでしょう。このアルバムはデジタル技術を音楽制作に取り入れる新しい方法を示し、後続のアーティストにも大きな影響を与えました 。
まとめ
ケイト・ブッシュの『Hounds of Love』は、私にとってアヴァンギャルドなポップスの完成系だと思います。このアルバムにはポップな曲も含まれていますが、全体としては統一感のある落ち着いたサウンドが特徴です。このアルバムは音圧が控えめなため、スピーカーで大音量で聴くとその真価が発揮されます。
『Hounds of Love』は、当時最先端のフェアライトCMIやリンドラムなどの最新技術やサンプリング手法を駆使しており、特に後半の「The Ninth Wave」セクションでは、コンセプチュアルで実験的な要素がちりばめられています。
さらに、このアルバムは多様な音楽要素を取り入れている点でも興味深いです。アイルランドの伝統音楽やジョージアの民謡など、さまざまな文化的要素が融合されています。これにより、このアルバムは統一感を保ちながらも、豊かな多様性を持つ作品となっています。
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