逃げ恥の「呪い」から考えたポリコレとキリスト教

逃げ恥の「呪い」の概念がしっくりこなくて、自分の中で繰り返し考える。今日は「呪いは神を信じていなければ機能しない」「ポリコレはキリスト教の現代的な補完、ネオプロテスタント」という考えに至った。

まず、「呪いは神を信じていなければ機能しない」について。
価値基準を度々変えることができる人間は、後悔をしないでいられる一つの超人であるということ。例えば、若い頃は若さを誇り、歳とってからその価値観を完全に捨て去って、経験を誇る人間はどうか。この手の人間は確かに存在する。この場合、若さの呪いは効かない。なぜならもう価値がないから。この超人に呪いをかけるためにはまず、「若さを誇っていたことは恥ずかしいことでその過去は忘れることができず、あなたを苛み続ける」ということを信じさせる必要がある。これは神を持たない人間に社会正義としての神を顕現させる改宗。呪いの効かないバカに知恵の実を強制摂取させる行為。

そしてなぜ、日本人・日本社会がポリコレに相対的でいられるかについて、ポリコレがキリスト教の一派、ネオプロテスタントである説。
信仰深い人や、神の価値基準を受け入れて生きている人にとって、LGBTであることが苦痛になる。その痛みは神には祓えない。なぜならそれは神が創った価値で、救いと不可分な呪いだから。この呪いを解くためには、本当は宗教的な解釈の練り直しが必要になる。ただそれはタブーで出来ない。そこで出した解決策がポリコレではないのか。神のあたえたもうた救いを享受しつつ、同時に局所的・個人的に呪いとして苦しめられる人を赦すための修正案。日本人はこの救いも苦しみも当事者でないので、その切実さがよく分からない。寧ろ、救われない信仰を受け入れて、呪いだけ被るような気がする。だから反発を覚える。そんな気がした。

僕は信仰の外側にいて、死後の話だけでなく、現実にも動かない尺度を与える神に憧れがある。ただ当事者でない無責任な憧れなので、「バチカンがLGBT云々」というニュースについて、神の価値に人が口出しできるの?千年後、反対のことが人を幸せにすると社会が決めた時にまた覆すの?そしたら神の価値に何の意味もなくただ人の価値に成り下がる。全知全能とは?などど勝手に考えていた。けど当事者のことを考えると愛と許しの神がそんな辛いことを放っておかない気がするので、これはこれで良いのかなという点で落ち着いた。

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