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同性を好きになって。後悔と苦しみに向き合うこと。

 先日、チェイサーゲームwという百合ドラマを見た。日本の百合ドラマや映画は暗く、悲しい結末のものが多いから普段はほとんど見ないのだけれど、これはなんだかさらりと見れた。そして、普段は封印している禁断の扉が開かれる思いがした。

 私には高校の同級生で好きだった同性の女の子がいた。その人とは今はもう連絡をしていない。でも時々寝る前に思い出す。特に後悔しているのは「あの時」触れなかったこと。告白したわけでもないし、ただの友達だったから触れなくて正解だったけれど、後悔している。とても自己中心的な後悔とも言える。今やドラマや映画で女性同士の描写が当たり前になっているけれど、もし、当時の私がその世界線を知っていたら少しは勇気を振り絞れたのだろうか、とか「あの時」触れていたらその後どうなっていたんだろうとか考えてしまう。もしかしたら、次に進めたのかもしれない。いや、進みたかったのだろうか…。そんな思いがぐるぐるして眠れない夜がある。
 
 私たちにはそれぞれ彼氏がいたが、気が合うので二人でよく旅行をした。仕事帰りに待ち合わせ、夜行バスで出発して本当にいろいろな所へ行った。
とある山深い場所にある高級旅館に泊まった時のこと。部屋にテーブルいっぱいに運ばれてくる地元の美味しい食事を堪能し、休憩してから内風呂に入った。2人きり…。電気を消して(今思うとどういう流れでそうなったのだろう)狭い檜の浴槽で非日常を味わった。
 長い時間浸かっていたから、「寒くなってきたから温め直したい」と友達が言った。その時、咄嗟に「私が温めてあげる」と言ってぎゅっと抱きしめたい、触れたいという願望があることを自覚した。視界も湯気で薄暗く、お互いにまったりとぼーっと湯舟に浸かっていたのでキスしようと思えばできるタイミングでもあった。でも、そんな大それた勇気はなかったし、告白もしていないのにするのはおかしいし、突然そんなことをしたらビックリさせちゃうのは明白だった。友情が崩れてしまうかもしれない。そもそも気持ちを打ち明ける段階にもいなくて、そもそも自分の気持ちが全然追いついていなかった。彼女に寄せている好意は一体何なのか、触れたいという意味は何なのか、彼氏との倦怠期によるものなのか、いろいろ分析してみたけれど答えが出なかった。
 湯舟から上がり、身支度をしてそれぞれの布団にくるまる。…目が合う。彼女が私を見ているから、そして、私も彼女を見ているから目が合う。そんな当たり前なことにどんな意味があるのだろう。彼女は今何を考えているのか。私の心に気づいているのかいないのか。考えても全くわからない。知りたいような知りたくないような。彼女の隣に行きたいなぁと心の中で思いながらも、疲れの限界で寝落ちてしまった。
 翌日も普段どおり馬鹿みたいにふざけ合ったり、他愛もない会話をしながら旅行を続けた。そうして、いくつもの旅行を共にしてきた。
 
 ある日、自分の中の想いが隠し続けられず、彼女に告白をした。正確に言うと、「好きになっちゃったから、もうこれ以上会えない」という内容のメールを送ったのだった。これだけ悩んだり苦しんだりしてきたのに文章化するとチープで情けなくなる。でも、直接言うには怖すぎて、相手の返事が欲しい訳でもなくて、ただこれ以上会うのが苦しすぎて会えないと思ったからだった。
あの時なぜ直接伝えなかったのだろうと今でも後悔している。けれど、あの時できるベストな方法だったから仕方がない。
 
 もし、偶然にもこの日記を読んで同じ状況にいる方がいれば、告白は直接したほうがいいということ。自分の苦しさから逃れるためにお互いに築いてきた関係を自ら突然ブチっと切ってしまわないように、ゆっくり想いを伝えること。その結果、そこで関係が終わるかどうかは誰にも分からないのだから。

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