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『流され雛の朝』試し読みページ

granatの新作小説、電子書籍『流され雛の朝』の試し読みを用意しました。
気になってる方、ぜひぜひこちらでチェックしていただけると嬉しいです。

流され雛の朝
著者 館山緑
表紙イラスト なきくに
kindle、kobo、BOOK☆WALKERにて電子書籍発売中
定価400円

あらすじ
平凡な四人家族が惨殺される事件。十二歳の誕生日に起こった『最初の事件』でただ一人残った少女、万里はそれ以前の過去を全て失っていた。
犯人が万里の体に刻んだ逆三角形の印。悪夢を見るたび、塞がったはずの傷から血が流れる。
少女が養親の家で穏やかな日常を取り戻した頃、『マリ事件』と呼ばれた四人家族の連続殺人が起こり始め、その現場には必ず万里へのメッセージが残されていた。あの夜に起こったことは何か、自分が失ったものは何なのか。万里の失ったあの夏の夜の欠落を埋められる日は訪れるのか──
痛みを抱える少女のための青春サスペンスホラー。

     序章 十二歳の朝
 
 空に浮かんだ白い月。
 彼女の最初の記憶はそこから始まっていた。
 
(つ……き)
 水越しに見える白い月は揺れては壊れて、忘れた頃に美しい曲線を取り戻す。それをただ、何も考えることなく見上げるだけだった。
 それは彼女が瞼を開けられなくなるまで繰り返された。
 しかし空から見れば、また別の様相が現れる。
 太陽が数分前まで真っ黒だった海を照らし始めた時に、波間を漂うものに光が当たり始める。透明の飛沫が陽を受けて、一瞬、薔薇色に輝いた。
 
 光を反射して、ひとつのシルエットが現れる。
 白いワンピースを着た少女が、ゆらゆらと浮かんでいる姿がそこにはあった。
 蒼ざめた少女からは命の気配は感じられない。
 背中くらいまでのところで綺麗に整えられている髪は、海藻のように蠢いていた。ぼろぼろの白いワンピースは海水と、濁った色の液体を吸ってしまい、沈んで消えてしまいそうな色に見える。
 決して瞼を開けない少女の皮膚は、すっかり冷えて海と同じ温度になっていた。
(……わたし)
 もうすぐ命の灯火が消えようとする少女の脳裏に、ひどくゆっくりとしたスピードで既に意味を喪失しかけているヴィジョンが浮かんでは消えていく。
 
 やさしいひとの声。
 幸せな気持ち。
 誰かの抱き締めるぬくもり。
 痛み。
 
 誰かの声が聞こえる。
 繰り返される苦しげな言葉の響き。
 泣いているのだろうか。
 
 そして、自分の喉から吐き出される、喉を灼き付かせる異常な叫び声。
 
 そんなものが通り過ぎ、全ての意味は解体し……消えた。
 それと同時に、少女から一切の力は抜けた。
 後はただ、まるで打ち捨てられた流し雛のように、暖かな陽光に照らされ、凪いだ海を流されていくだけなのだ。

 それが岩本いわもと万里まりの第一日目だった。

    万里十二歳 Ⅰ
 
「この子は……小松原こまつばら万里さんで間違いないですか?」
 海沿いの街にある病院で、岩本武治たけじが少女のことを確認した時、万里の顔からは完全に表情が消え失せていた。
 子供らしい気配は全く感じない、真っ白な、作り物のような顔。表情も血色も消え失せた顔を見ていると、人形を通り越してよくできたデスマスクのように思えた。
 親友、小松原照伸てるのぶの娘であり、武治もしょっちゅう顔を見ていた万里が、外界に対して一切反応しないのだと所轄の警察からあらかじめ説明を受けていてさえ、その様子はショッキングなものだった。
「万里ちゃん、岩本のおじさんだ。返事をしてくれ」
 武治の声どころか、全ての音声が万里の中で無に等しく、全ての視界情報が何も処理されない。呼吸こそしているものの死体のようだと武治は思った。
「彼女は小松原万里さんで間違いありませんね?」
 もう一度繰り返される質問に、武治はうなずいた。
 勤務する警察署こそ違え武治も刑事だった。こんな時に取り乱すことがどれだけ捜査の手間を増大させるか嫌というほど解っていた。
「間違いありません」
 その確認を終えて、医師と所轄の刑事、武治の三人が扉に向かう。
 年配の看護師が床ずれしないようにと、万里の体を動かしてやっているのをちらりと見ながら、武治は溜息をついた。
(万里ちゃんは……あんなになってしまったのか。一体、何があったんだ)
 人は多くの事件で肉体的、精神的な痛みに苦しむが、一切の反応ができなくなるほどの状態になってしまうというのは、よほどのことだ。もしかしたらその時に頭などを打って一時的に全身麻痺を起こしているのかもしれない。
 そんな型通りの予測は応接室へ案内され、医師の説明を受けた瞬間に吹き飛ばされることになった。
「万里さんは眼も見えていますし、耳も聞こえているんです」
「どういうことですか?」
「脳波にも五感にも何の異常もありません。ただ、一切の反応をしない。精神的なものである可能性が高いと考えています。事件の悲惨さを考えればあの年齢なら当然のことですし。多分一時的なものだとは思いますが」
 小松原照伸とその妻、千鶴ちづる。息子のしゅう。娘の万里。
 彼らが夜の浜辺で何者かに襲われた後、その躯を海に流されたらしいと聞いた時には、自分の耳を疑ったものだった。自分の知人には決して凶悪犯罪など起こらないと考えている訳ではないが、災害に巻き込まれただの、交通事故だのという定番の不幸ではなく、大量殺人というのは簡単に想像できるものではない。
 血だまりの砂浜に一家全員の血と乱闘の痕跡が残され、朝になってから釣り人が海に浮かんでいる瀕死の万里を発見したのだ。その後、昼頃には千鶴の死体が流れ着いたという。父、照伸と兄、周の死体は未だ発見されてはいない。
 武治は電話で連絡を受けた内容を思い出し、渋面を作った。
「ひとつ、気になったのですが……電話ではそこまで説明を受けなかったので」
「何でしょう?」
「嫌な言い方ですが、万里ちゃんは何故怪我をした状態で海に浮かんでいたのに、失血して死ななかったんですか?」
「彼女が傷を付けられた時に早々に気絶したのか、出血があまり多くなかったのです。傷も少ないし抵抗の跡も少ない。ただ、千鶴さんと万里さんの傷には、大きな違いがあります」
「どんな違いですか」
 どう説明してよいのか悩んだらしく、医師は憂鬱そうに眼を伏せる。
「千鶴さんは腎臓を突かれ、ほぼ即死しています。手馴れた人間に刺されているようです。死亡後にも滅多刺しに近い状態です。ですが、万里さんの傷は千鶴さんのものとは全く傾向が違います」
「……傾向?」
「万里さんの傷は、彼女の鳩尾に逆三角を刻むようにして付けられています。それ以外の傷は、暴れて刃物をよけようとした時に付いたと思われる腕や掌の傷だけで、他には一切傷を受けていないんです。出血量も少ない。他の家族の流血量に較べて、万里さんだけがかなり少ないんですよ」
「まだ子供ですから、痛みで早く意識を失ってしまって死んだものと思われたのではないか、と今のところは考えています」
「ところで、万里ちゃんがそんな傷を付けられた理由は何も解っていないのですか?」
「残念ながら。現時点ではそれが何を意味するのかも、その逆三角形で完成なのか何か別なものを描く途中で止めたのか、それとも特に意味がないのか、それすら解らないのです。そして万里さんの傷の方が例外なのか、千鶴さんの傷の方が例外なのかも解っていません。今は判断をする時期ではないでしょう」
 医師の声に澱みもためらいもなかった。
 何かを隠している訳ではなさそうだ。
 職業柄、人の感情を読まなければならないのは日常茶飯事だ。何か問題があれば体よく情報は伏せられる。しかし医師からは何かを隠している気配を特に感じなかった。
 何より彼から大きく感じるのは困惑だった。こちらに情報を伏せているのではない。彼が何らかの情報を伏せられた状態で話をしているのでもない。ただ純粋に、この状況に困惑しているのだ。
「とりあえず、彼女達の傷の付けられ方が違うことで、現時点で犯人が何を目的として彼らを襲ったのかは推測もできない状態です。この後調査が進むのは多分、照伸さんか周君か、どちらかが発見された時です」
 所轄署の刑事がそう付け加える。
 本当は『照伸か周の遺体が発見された時』と言いたいのだろう。
 そのくらいは武治にも理解はできていた。
「照伸や周君はやっぱり死亡しているんですか」
「短い時間降った雨と波である程度洗い流されてしまっていましたが、二人共それなりに出血の痕跡が見つかっていますからね。あのまま流されて、今も発見されていないのですから、生きている可能性はごく低いでしょう」
 大怪我を負って、まる一日半も海に浮かんでいたら、むしろ出血がなく、体が冷えるだけでも無事に戻ってこない可能性が高い。
 武治が担当している事件の被害者であっても同じ判断をするだろう。
「万里さんの家族は死亡している千鶴さんと、行方不明の照伸さん、周君以外の親戚はいないようですが、どなたかお心当たりはありますか?」
「いいえ。千鶴さんは確か鹿児島から出てきて一年くらいでご両親を亡くしていて、照伸も昨年、一人残っていたお母さんが癌で亡くなっています。彼とは同郷の友人なので、彼の地元の係累に関してはほぼ把握しています」
「万里さんのことを知らせられるような血縁は、一人もいないんですね」
「そうです」
 説明しながら、武治はどんどんやりきれない気分になってきた。
 あの、誰一人頼る者のない状態で、外界に対する反応もできないほど傷つけられ、追いつめられた万里のことを考えると、重苦しい責任感がのしかかる。
 しかも目覚めたとしても母が惨殺され、父や兄が未だに行方不明なのだ。彼女が受け止めるべき現実は子供には受け止めきれないほど痛ましい。
 万里が哀れでならなかった。
「妻と相談してからになりますが、照伸が戻るまで万里ちゃんのことは私が面倒を見たいと思います。もし他にあの子を引き取る筋の人がいるなら話は別ですが、私にとっては親友の娘です。万が一照伸の遺体が上がって……周君が生きていた場合にも二人一緒に面倒を見るつもりです」
「そう言っていただけるとありがたいです。本当に岩本さん以外には誰も彼女の身元確認できる人がいなかったのです」
 ついさっき自分が身元の確認をするまで、万里は身元不明人だったのだ。
 親友の悲惨な状況以上に、そのことが悲しかった。
 
 
 病室を辞して階段を降りながら、武治は溜息をついた。
 妻の登美子とみこに万里のことをどう説明したものだろう。
 確定していない情報を聞かせて杞憂させたくないので、身元確認に行く時にはほとんど説明もせずに家を出たのだ。さぞかし心配しているに違いない。
 しばらく悩んだが、ショックを与えずに説明する方法は思い浮かばなかった。
 諦めて、一階まで降りて公衆電話を発見するとそのまま自宅に電話をかけ、機械的に小松原家の状況について説明した。登美子も一応携帯電話を買ったものの、機械類は苦手なのか火急の用事があった時にメールを送ってくる程度だ。直接自宅に電話した方が早い。
 この後、照伸や周が見つかるまでは、万里に落ち着ける場所を用意しなくてはならないのだ。戸惑っている余裕などなかった。
『万里ちゃん、そんなにひどい状態だったの』
 登美子の声は沈んでこそいたが、思ったより動転してはいなかった。
「……落ち着いているようだな」
『落ち着いてなんかいませんよ。ただ……あなたが出かけた後にワイドショーであの事件が採り上げられていて』
 時間的には放映されていてもおかしくない頃だ。
 登美子はその手の番組があまり好きではない。何か情報が流れていたら夫に知らせるために、わざわざ確認していたのだろう。
「何か気になる内容はあったか?」
『そんなに詳しい情報は流れていませんでしたよ。だから詳しいことはあまり解らなかったんですけど、一応あなたが確認できるように録画してありますから、後で見てくださいね』
「そうしよう」
 こういう時、登美子の気遣いにいつも助けられる。
『でも、万里ちゃん、そんな状態で独りぼっちだなんて……そんなこと、あるべきじゃないわ』
「万が一の時には万里ちゃんを──もちろん、周君も生きて見つかればだが、引き取ることも考えている……その」
『もちろんいいに決まってるじゃないですか』
 口籠もったタイミングにかぶせるようにそう言ってくれる。
 刑事の妻である登美子には、万里のような心身共に大きすぎる傷を受けた子供を引き取るということの大変さは理解できているはずだが、ためらう様子もなく答えてくれたのが嬉しかった。
『照伸さんや周君が見つかっても、無傷で発見される可能性はないのでしょう? だったらどのみち当分は万里ちゃんの退院後に落ち着く場所もないんですから、うちに来てもらうのが一番ですよ。私達で何とかしてあげたいじゃないですか』
 武治と登美子の間には子供はいない。
 今時なら不妊治療ということも考えたのかもしれないが、二人が若く、子供が欲しいと思った時にはあまり技術も発達していなかったこともあって結局諦めてしまったのだ。
 それに刑事の仕事は不規則で、危険でもあった。子供のいない生活も気楽なものだと思い、十年以上が過ぎ去ってしまったのが正直なところだ。
 ただ、子供を得られなかった分、万里や周に対して、我が子に向ける分の愛情を『岩本のおばさん』として与えていたように思えた。代償行為なのかもしれないが、そういう愛情に溢れた登美子のことを、武治は昔からずっと好きだった。
 しかし、経済的にも労力的にも大変なのに、万が一の時に血縁でもない子供達を引き取ることに賛成してくれる確信までは持てなかったのだ。
「いいのか」
『いいに決まってますよ、武治さん。もちろん照伸さんが無事で戻ってきてくれるのが一番でしょうけど、何かあったらうちに来てもらいましょう?』
 くすっと笑うその声に、武治はとても救われたような気がした。
 
 病院を辞する前に、受付で万里の転院や治療費に関する打ち合わせを済ませ、最後にもう一度万里の病室に戻った。
 失血のせいで血の気が抜けたその顔から生気を探すのが難しい。
 しかも、彼女が目覚めた時に知るのは、母が死に、父と兄が未だに発見されていないという事実だ。おまけに行方不明の父や兄の生存はほぼ絶望的とくる。
「……万里ちゃん」
 もちろん、呼びかけても少女が目覚める様子はない。本当に死んでいると言われても一瞬信じてしまいそうだが、万里の胸はかすかではあるものの、規則正しく動いていた。
 決して瞼を開けることなく。
 ただ、体が欲する眠りの中に埋没しているようだった。
「君が起きた時、とてもつらいことを話さなければならない。だが、戻ってきてくれ。君の時間をあの海で終わりにしないでくれ……君のためにも、君の家族のためにも」
 眠る万里にはこの言葉は届かない。
 それでも彼女はあの事件の、現時点で発見されている唯一の生存者だ。自分だけがあの事件を語り、解決への糸を手渡すことができる立場なのだ。
 母が惨殺され、無事ではないことが確定している父や兄も未だ見つからない。そして万里まで死んでしまえば、家族の無念を晴らす人間はいなくなる。あの場で何が起こったのか、犯人が何を思ってあれだけの事件を起こしたのかは、永久に葬られる。
 それを理解していたら、彼女は死んでいくだろうか。
 もしそうだとしても万里は一度、目覚めるべきだ。この惨状を見て、家族がどんな状況にあったかを語らずに世界から退場していくべきではない。その眼で事実を見てから、沈黙を守るかどうかを決めるべきなのだ。
 武治はしばらく横たわる万里を見ていたが、やがて溜息をついて病室を出た。
 ぱたん、と扉を閉める音が響いた時、万里の唇が動く。
『……モウイチド、イッテ』
 しかし、それを見ていた者はいなかった。
 
 
 駐車場へと向かいながら、武治は考え続けた。
(あそこで……何があったんだ?)
 誰かの害意を誘発するタイプの人間は存在する。
 特に目立つことをしている訳ではないのに、誰かが凶暴な衝動を押し殺している時、ふと眼に入ってしまうのだ。そして最悪の方法で痛めつけられ、加害者が意図していた以上に被害を増大させてしまう。
 しかし照伸はそういった被害者になりにくいタイプの男性だったし、他の家族も特に誰かの暴力を誘うような気配を持ってはいない。通り魔的な犯行とも言える今回の事件で、何故照伸の一家が被害者として選ばれたのだろうか。
 武治は所轄署の刑事だが、普段は窃盗関係がメインで殺人事件の捜査に回ったことはあまりがない。もちろん全く経験がない訳ではないが、これほどの事件に遭遇したことは一度もなかったのだ。
 例の事件について、担当の刑事は病院で簡単な説明をしてくれていた。
 彼らがその海沿いの街に来ていたのは、万里の十二歳の誕生日パーティにレストランで夕食を摂った後のことらしい。食後のドライブを楽しんで、浜辺で散歩を兼ねて歩いていたのだろうか。
 そんな幸せで平凡な家族を、無惨に切り刻む犯人とはどんな人物なのだろうか。
(待てよ。何か変じゃないか?)
 いくらそこが夜の浜辺で、視界は闇に紛れて足音は波で消えてしまうとしても、四人連れの集団に一人で襲いかかるものだろうか。あの夜、深夜に一時間ほど雨が降ったというが襲うタイミングにそれを知ることはできない。
 武治は周の身長を思い出した。中学二年生の周は身長168センチ前後のはずだった。もうそろそろ身長170センチ強の照伸を追い越そうかというところまで成長しているのだ。そして女性陣も千鶴は160センチ弱、万里も年齢よりはやや大柄でほとんど千鶴に近かった。ここ最近は万里が中学受験をすることになったせいか、小松原家に招かれることが減っていたが、成長期なのでもう千鶴の身長を追い抜いていても不思議はない。
 暗がりの中で見れば大人の男女四人組にしか見えないはずだった。
 もし自分が通り魔だとしたら、大人四人が歩いている時に、人数を気にせず襲いかかることができるだろうか。
(数に任せて数人がかりでやるならいざ知らず、複数の大人に一人で向かっていこうと思う奴はそんなに多くないんじゃないか?)
 それこそターミネーターのような巨漢で、格闘の技術を誇るような人物か、多人数をまとめて殺せる武器を持ってでもいなければ、そんな無謀なことはしないだろう。
 しかも猟奇殺人には珍しく、金品が盗まれているというのだ。千鶴のバッグから財布などがなくなっていた。多分奪われたのだろうと警察では考えている。
 照伸達の行った場所で偶然、何人もの人間を殺害できるほどの技術を持った不審者が、四人のうちの誰にも気づかれずに近づき、全員を切り刻むだけの間、誰一人逃げもしない。そんなことが本当に有り得るのだろうか。
(盗難目的……じゃないぞ)
 強盗事件の捜査に加わった経験は多くなく、殺人事件ともなるとほとんどないと言ってもいい武治だが、盗難事件の知識はある程度ある。
 もし強盗だとしても浜辺の、逃げた方向をかなり遠くまで確認できるような場所で、四人相手に襲うとは思えなかった。もし金品を盗んでいるのだとしても、盗難目的ではないような気がした。しかし、自分に説明された内容も全てではないはずだ。大多数の情報は伏せられているだろう。
 証人となるべき被害者のうち、唯一保護された万里は未だ意識を回復していない。意識が戻ったとしても、万里はまだ少女だ。恐怖とショックを堪えて事件当時のことを思い起こさせるのは難しいだろう。
 武治は深い溜息をついた。
 
 
 万里を見舞った二日後、現場からかなり離れた場所に照伸の遺体が流れ着いた。
 多くの刃物の傷は確認できたが、夏のあたたかい時期だったこともあり、既に腐敗したり魚に食われたりしている部分が多かった。遺体の状態はかなり悪く、事件当時の状況を判断しづらくなっていた。周はそれから一週間が過ぎても発見されていないが、既に生存は絶望視されていた。
 それから武治と登美子は数多くの手続きに追われることになった。
 未だ意識を取り戻さない万里と、発見されない周の保護者として、それぞれの学校に休学の手続きをしなければならなかったのだ。
 万里の小学校でも、周の中学校でも、このセンセーショナルな事件については充分すぎるほど知られていて、話を切り出すのに困ることはなかったが、万里や周の今後を考えると気が重いことが山積していた。
 万里の方はリハビリも長くかかるだろうことは予測されていたし、退院次第転校もしなければならないので、細かな打ち合わせを兼ねて登美子が行き、周の中学にはその日万里の入院している病院に行く途中の武治が寄ることになった。周が通っている私立中学は勤務している都内の警察署からも比較的近く、武治の自宅からそれほど遠くない。同日に行かねばならない場合、武治が周の学校へ回る分担になった。仕事は忙しいが理由が理由なので最大限の便宜を図ってもらうことができた。
 その日。武治が周の通っていた私立中学の敷地に足を踏み入れた時、夏休みだというのにそれなりに生徒達がいて驚いた。教室から物珍しそうにこちらを見ている者もいるが、気にせずに来客用の入り口を目指して歩く。
 受付で名前と用件を書いた後、言われるままに職員室に向かった。
「小松原周の身元引受人の岩本ですが」
 そう告げると、職員室に残っていた教師の一人が扉の側までやってきて一礼した。
 三十がらみの男性教師は、周の担任の日置と名乗り、そのまま校長室まで武治を案内した。約束してあったので武治のことを待っていたらしい。
「夏休みなのに賑やかですね」
「任意の夏期講習と補習授業に来ている生徒達です。三年生は半分以上来ていますので、小松原君の件もほとんどの三年生は聞いています。来ていない生徒のところにも連絡網は回していますから全員知ってはいます」
「……なるほど」
 思った以上に学校側はこの事件について情報を共有しているようだ。
 校長室は職員室の隣だった。日置が扉をノックすると中から応ずる声があった。
 中に入ると、デスクから移動してきた五十歳前後の有能そうな男性が一礼する。彼が校長らしい。ソファを勧められ武治が座ると、校長と日置が席に着いた。
 定番のお悔やみの言葉を告げられ、機械的に返答する。もちろん小松原夫婦に対してのものではあったが、周の動向が不明な今聞くのは決していい気分ではなかった。
 武治は早々に話を切り出す。
「周君はどんな生徒でしたか? みんなどんな風に彼の話を捉えていますか?」
「とても優秀な生徒ですよ。成績もいいし、学習態度もいい。友達からも好かれていたようですし……事件のことを聞いて、女子生徒が何人も泣いているのを見ました。特にガールフレンドがいたという噂はありませんでしたが」
 武治は周の端正な顔立ちを思い出した。万里とよく似た容貌の周は中性的な顔立ちで、確かに女性受けしそうだ。
「状況が状況でもありますし、小松原君が……その、戻ってきた時には、こちらでも復学しやすいように努力します」
「ありがとうございます」
 いなくなった少年に対する歯の浮くような褒め言葉を聞いているうちに、武治は何となく居心地が悪くなってきた。死んだ女性のことを決して不美人と言わないのと同じように、周の死を前提とした美辞麗句であるように思えたのだ。
 もちろん彼が優秀な生徒だったのは間違いないだろうが、その上滑りした雰囲気はどうしても拭えなかった。
「今回の事件で生徒はひどくショックを受けています。先日、ホームレスの人達を狙った通り魔殺人が起こったばかりでしてね、学校中が不安定な状態ですよ」
 武治はそんな事件が報道されていたことを思い出した。大体半月ほど前だろうか。
 自分の所轄署の事件ではないし、被害者には悪いがほとんどの人には数日で話題に埋もれてしまう。しかし自分の校区で殺人が起こった生徒達にとっては、殺人続きで不安になるのも当然のことだった。
 校長は深々と一礼し、お悔やみの言葉を繰り返した。
「……小松原君のご両親のご冥福をお祈りします」
『小松原君のご冥福』と言いたかったのを無理に引っ込めたのは伝わってきた。それ以外の言葉を告げようがなかったのだろうが、取ってつけたようなお悔やみが、ひどくやるせなく感じられた。まだこの事件は終わってなどいない。周の遺体は見つかってすらいないのだ。そんな言葉で終わりにされたくはなかった。
 その後日置が用意した書類の説明を受け、休学手続きだけを手早く済ませると、武治は早々に校長室を出た。
(葬式の予行演習に付き合ってる気分じゃない)
 渋面を作りながら、行きに通ってきたのと同じルートを歩いて抜ける。ちょうど夏期講習だか補習だかの合間なのか、生徒がわらわらと校舎から出てくるところだった。
 その横を通る時、つい武治は彼らの顔を見てしまう。
「ん……?」
 彼らのことをじっと観察しすぎたのだろうか。
 一人の少年がいぶかしそうに武治を見ている。
 やや長身の少年だった。
 警察の仕事で来ている時は、時折こういう視線を受けるのは珍しくない。どんな理由であれ、警察の聴取や捜査を受けるのは誰に対しても緊張感を強いるものだ。プライベートで行動していても、警察の人間の匂いを感じ取る者はやはりいる。
 しかし、今まで武治は公務以外の時に刑事であることを匂わせたことはない。気取られることもなかった。こんな風に探るような視線を投げられる理由などないはずだ。
 そこまで考えて、武治はおかしくなった。
 ここは中学だ。四十前後の中年男が校庭を歩いていれば変に思われるのも当然だった。
 既に武治を見ていた少年も、武治に眼を向けてはいない。他の生徒と話をしながら歩いていってしまった。
 やはり、ここ数日の件で神経が尖っているらしい。
 武治は首を振り、肩をこきこき鳴らすと校門を目指した。
 
 
 万里が入院して一週間以上が過ぎた。
 今回もまた担当医師と刑事の立ち会いのもとに、万里の顔を見ることになった。
 容態は相変わらずだ。体の消耗が激しいのか、以前見た時の、出血多量で顔色がひどかった時よりやつれているように見えた。
「万里ちゃんの具合はどうですか」
 体調がよくなり次第、退院させるか武治の自宅から近い病院に転院させることができるかどうか、という意味を含めて訊いてみる。
 医師は重々しく首を振った。
「……あのまま意識を取り戻してはいないのですが、時折ひどくうなされるらしくて、激しく暴れます」
「暴れるんですか?」
「事件のあった時間を思い出しているのでしょう。『やめて』『嫌』『パパ』『ママ』……意味が取れる言葉はこのくらいで、後は叫ぶばかりなんですが、見ているとかわいそうですよ」
「そう、でしょうね」
 あまりにも痛々しい話だった。
「犯人の特定ができる言葉は一切出ませんね。暗がりだったのと、パニックを起こしていたので、万里さんは犯人についてちゃんと見えていなかったのかもしれません」
「その可能性はありますね」
 万里は事件の際、鳩尾に傷を刻まれているのだ。ワンピースはめくられるかして、体を押さえつけられて傷を受ける様は、ひどくレイプに似ている。幼少期に性犯罪に遭遇した少女、幼女は自らの精神安定のために犯人像を曖昧に受け取ったり、思い出せなくなってしまうこともよくある。まして暗がりで激しい痛みを与えた相手について、はっきりと憶えていろという方が無理でもあった。
 医師からどの程度回復しているのかを説明された後、応接室を貸してもらって所轄署の刑事から事情の説明を受ける。病室で話していた話題が気にかかっていた武治が話を切り出した。
「病室で少しお話しいただいていたことなんですが、万里ちゃんの着ていたワンピースは前にボタンのあるやつですか。それとも後ろにジッパーのあるやつですか」
「後ろですが、それが何か?」
「いいえ、大したことじゃありません。どちらにしろ刃物で刻んだ犯人は、服を破ったりすることもなく、鳩尾を刻むのに問題ない位置まではだけさせて犯行に及んだ、ということですね。少なくとも、両親の時とはずいぶんやり口が違うものだと」
「確かに。もしかしたらペドフィリア嗜好を持つ人物が、最初から万里さんを狙って起こしたものだったのかもしれませんね。残りの家族を始末してから事に及んだのかもしれません」
「可能性は……ない訳ではないでしょうが」
 小児性犯罪者に限らず、性犯罪者が激高して人前で行為に及ぶことはほとんどない。まして万里は身長だけなら成人女性と変わらない。いくら暗がりだからといって、他の家族と一緒にいる時に襲いかかることを決意できるものだろうか。
 相手が一人ならまだしも、反撃してくる可能性の高い男性二人を含めた三人を殺し、その後に目当ての相手を押さえつけて刻んだ後では、ズボンを下ろす手の感覚すらなくなりそうだ。まして肝心の代物が役に立つほど体力が残っているとはとても思えなかった。違和感がどうしても拭えないのだ。大量殺人のターゲットとして選ばれてしまったと言われた方がまだしも理解しやすい。
 現時点では情報がほとんどないので、これ以上考えても仕方がない。そう自分に言い聞かせて話題を変えた。
「で、周君はまだやっぱり……」
「ええ、見つかっていません。もう事件から九日も経っています。周君の生存している可能性はほぼゼロだと思っていただく方がいいでしょう」
 傷を負ったまま、海で数日浮かんでいて無事な人間などいない。生きていたとしても、意識がなくなった時に魚に傷口から食われてしまうのが関の山だ。
 武治も納得せざるを得なかった。
「あと、ひとつ新たな情報が入手できました」
「何ですか?」
「事件の際に千鶴さんのバッグから金品が奪われているというお話をしたと思うのですが、奪われたものについて新たな情報が入りました」
「どんな情報ですか」
「万里ちゃんが誕生日にもらった真珠のチョーカーがあるんですよ」
「チョーカー?」
「ほら、最近の女の子がよく首に巻いているでしょう。短く首に巻かれていて、飾りの付いたアクセサリーです」
「ああ」
 あの首輪に似たやつか、という言葉を武治は引っ込めた。
「小松原一家が夕食を摂ったレストランの店主から証言が取れましたよ。誕生日だというので特別にケーキや花束などを用意して、いろいろやったみたいなんですが、その時に千鶴さんが万里さんにプレゼントのチョーカーを出して、着けてあげたみたいなんですよ。それがないんです」
「流されたり落ちたりした訳ではなくて?」
「千鶴さんが持っていた鞄は残されているんです。財布と一緒に盗まれたのでしょう。落ちていたとしても、かなり真珠の粒が大きくてリボンの幅も広いので、見つかりやすいもののようです。もし転売されていたら犯人の情報が摑めるかもしれません」
 十二歳の誕生日を迎える少女へのプレゼントと思うとずいぶん高価な品だが、もらった時にはさぞかし嬉しかっただろう。万里が意識を取り戻した時、幸せな思い出の象徴であるはずの誕生日プレゼントが、家族の命と共に失われたのだと知るのだと思うと胸が傷んだ。
 しかし万里は一度も目覚めることのないまま横たわっている。自分や家族の不幸を知ることすらできない身なのだ。
 それは不幸と対峙すること以上に不幸なことなのではないだろうか。


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