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お願い事は七夕だけじゃなくてもいい。

短冊に込めた願い事
幼い頃のもっぱらの願い事といえば将来のなりたい職業などを短冊にしたためた記憶があるが、大人になったいまはどんな願い事を思い浮かべるだろう。七夕みたいな行事ごとや、節句ごとをすっかりやらなくなってしまったが、いまのご時世ならば「いつも通りの暮らしがしたい」だろうか。

最近、雨が続いていて外にいちいち出るのが面倒だが、今年は無事に出会えるだろうかなどと考える。
仕事帰りに寄った近所のスーパーに、七夕のための笹が飾られていた。今年もつるされた七夕の短冊に沢山の願い事が書かれてあった。人の願い事は見るもんじゃないと聞かされていたから、なんだか後ろめたい気もしたが、ちらりと盗み見してみた。ヒーローになりたいというようなかわいらしいものから、私と同じようにいつも通りの暮らしがしたいといったものまで多様だった。願い事は十人十色で、この後ろにその人の生活や考え方、そのほか色んな思いが伺えて少し楽しかった。

願い事を叶えるのは、結局は意志の強さだと聞いたことがあるが私はあまりそう思わない。
運と環境とタイミング、願い事にはそういうものも作用する場合があると考えている。


叶えたい願い事

多くの人は叶えたい願い事をいくつか常に持っているものだと思う。
Instagramで見かけたあの服が欲しいというような小さなものから、いつか宇宙に行きたいというような壮大なものまで。
願い事はいくつ持っていても良い、なんて言うが大きな願い事にもなると大人になるにつれて、(自分には向いていない)とある種の後ろ向きのエネルギーを発揮したり、叶えるための努力を卑下してしまったり、恥ずかしさから熱っぽさを捨ててしまったりする。

それは成長でも、羞恥心なんかでもなく、単なる諦めであることに気づいたのはいつ頃だっただろう。

子どものころの夢は実にシンプルかつ、素直だ。
ヒーローになりたい、ケーキ屋さんになりたい、今であればYouTuberになりたいというものもある。
目的が明確で、沢山の可能性があって、見るだけで癒されるようなそんな夢。
でも、私は七夕という願い事を振り返る機会でさえも、些細なことを諦めてしまって何も書けずにいる、ズルい大人だ。


でも、純粋にふと思う。私の叶えたい願い事って本当はなんだろう。

七夕の笹の葉が並べられる頃、私は頭の中の引き出しにあるたくさんの願い事をあさる。
最近学んだ知識や、学生時代から今に至るまでの思い出、経験してきたあれこれは見当たるが、願い事といえば「健康がいいな」とか「とにかく今よりいい家に住みたい」だとか、「好きなお洋服が欲しい」だとか、現実味がありすぎて、幼い頃にあったキラキラとした願い事とは程遠い気がする。

人はいつから願い事が現実的になるんだろう。

正直、私は願い事が現実になった瞬間を覚えていないが、物心が付く前からすでにすっかりませていたと思う。
小学生の頃のこんなエピソードがある。私の当時住んでいた家の近所に引っ越してきた家族の子どもが、偶然にも私の通っていた幼稚園と同じだった。
私はその人のことも、その家族のことも覚えていなかったが、彼らは私のことを覚えてくれていたようで、何気なく母がその理由を聞いてくれた。その時に言われたのが「一番大人っぽかった」かららしい。
幼少期から大人に混じって、お話するのが好きだった私は、いつの間にか大人っぽい子と覚えられていたらしい。わたしは幼稚園に通っている頃からすでにリアリストだった。そのおかげかいまも、人見知りをほとんどしないのは棚からぼた餅的な幸運なのだが。
そんな私は、七夕のお願い事さえませていた。

「家族みんなが幸せでありますように」

これは、今も変わらない私の願い事だ。子どものころのように自分の願いを純粋に書けたらいいのにとも思う。
私にとって家族は何にも代えがたいと思っている。たまたま神の巡り合わせで何十年もの時を過ごしてきたからだ。いくら仲が悪かろうと、連絡をまめにしなかろうと、つらいことや大変なことを大なり小なり分け合って乗り越えてきた戦友みたいな存在であることは間違いない。
だから思う。家族みんなが、不幸にならずに幸せでいてほしい。これが些細な願い事だとしても。

織姫と彦星と七夕

1年に1度、織姫と彦星が晴れた天の川越しに会う。それが、七夕のざっくりとしたあらすじだと記憶している。そんなロマンチックな七夕という日は雨が降ることがほとんどで、晴れる確率は3割程度らしい。
1年に1度も会えないかもしれないなんてなんと不幸なことだろう。

東京に出た私は基本的に1年に1度は田舎に帰省する。おばあちゃんっ子だった私は、目が合った瞬間のぱっと明るくなる彼女の笑顔が好きだ。めっきり会話をする機会が減ってしまったけど、「たくさん食べな」と笑顔で出してくれる食べきれない量のおかずも、知らない間に片づけられる食器も、隅々までキレイになったお風呂に入れるのも、年に1度しかないからこその、感じられる幸せなのかもしれないと思う。だから私は1年に1度しか会えないかもしれない関係は不幸ではないと考える。

子どものころは七夕の神話がなんて悲しいお話なんだと思っていた。だけど、大人になって改めて見返してみると、1年に1度会える幸せやありがたみを感じられるから、まったく不幸というわけではないのではと思った。
地方によっては7月7日に降る雨は二人が会えた嬉しさに流した涙であるとの説もあるらしいしね。

七夕が願い事を明確にさせる

七夕が幸せを感じ、願い事が叶う瞬間だとすれば願い事を口にする機会としてちょうどいいのではないかと思う。
色とりどりの短冊に願い事をしたためて。織姫と彦星が会えますようにと願いながら。

逆に、願い事を口にするのは七夕でなければ必ずしもいけないのかと問われれば、そうでないと思う。たまたま願い事を口にしやすいのが七夕なだけであって、ただのきっかけに過ぎないからだ。それに、私のように七夕を願い事を整理する時間に使ってもいい。

今日、私は七夕の短冊にこう書いた短冊をつるした。

「今年も幸せがたくさん感じられる1年が送れますように。」
それが、私の七夕に寄せる願い事のひとつだ。


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