見出し画像

人生とは砂金採りのようなもの

5日は仕事始めだった。
各方面へのご挨拶メールと、年・月初処理を早々に済ませた。

どこに行くわけでもなく、またどこに行けるわけでもない私の年末年始は、少しゴミを捨て、毎日noteと漫画を投稿し、フランス語学習を続け、本を読み、フランス映画を3本観て過ごした。
特別なことは何もなく、古典的なお正月料理をいただいたくらいだった。
母は年末年始の特別感よりも、毎日規則正しい生活を好むので、それに合わせて私がゆっくり寝ていたのは元日だけ。お正月の感じはあまりしなかった。

そういえば今年は「やりたいことリスト」をまだ書いていない。
毎年、やりたいことや行きたい場所など小さなことでもリストアップしておくのが私の習慣となってたのだが、今年は何だかそんな気力もなく、ぼんやりしていた時間の方が多かったかもしれない。
”ぼんやり”という表現は少し違っていて、頭の中はそれなりに考えていたのだが、それを目に見える状態にしなかったというのが正しいかもしれない。

ふと、家族で岩手を旅したことを思い出した。
町から町へ抜ける山間の道路、それほど高くない崖の下には川が流れていた。
釣りをしたがっていた父は、川岸に高年の男性がいるのに気づいた。
釣りをしているのかと思い、路肩に車を止め、父が一人でその男性に話を聞きに行った。
しばらくして車に戻ってきた父は、こう言った。
「あの人、砂金採りをしてるのだそうだ」
こんなところでどれくらい採れるものかねぇと私たちは訝しがったが、その時の場所がはっきりわからないものの、岩手では確かに砂金が採れるらしい。

現実には砂金より砂利ばかりなのだろう。
そこに宝などあるかどうかわからない。それでも人は宝があると信じて探す。
人生とはそういうものかもしれない。
私は今、川の中から砂利を掬った篩を引き揚げ、篩に残った砂利を見て日々落胆しているような気持ちだ。
それでも、もしかしたらこの次は、もしかしたらその次は…と毎日砂を掬っては落胆し、また川底を掬う作業を繰り返している。
少しずつ場所を変え、諦めず、コツコツと、そうしていったらいつか太陽の光に煌めく1ミリにも満たない美しい金の粒に出会えるのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?