与える事の中で~箴言11:24

箴言
11:24 気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある。
11:25 おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。


 「恵みといえば真っ先になにが思い浮かぶだろうか。その時”新たに加えられる祝福”を強調する人は多い。がしかし、私はそうではない。恵みと言うならばまず、”既に与えらえている、与えられてきたもの目が開かれる”という事だと考える。つまり既に私は数えきれない恵みを受けてきたし、今日この瞬間も絶えず神からそれを受け続けており、そして取り囲まれるようにして生かされている。この絶えざる恵みの供給は決して失われる事は無い。」これは私の持論です。

 今回私が皆様にお伝えしたい事は、人々に対して与える事の素晴らしさについてです。
私がある出来事を通して自身の大きな変化を経験し、人々に与える事を行動に移し始めたのは2018年の年末でした。
あれから1年半の中で経験した祝福についてお分かち合いしたく筆をとりました。
今回の投稿のきっかけを下さったサボさんのご投稿に感謝致します。

さて、まず皆様に承知しておいていただきいたい点があります。それはこの度私が強く申し上げたいのは、神からいただけるある種の祝福の素晴らしさではなく、むしろ神ご自身について、その素晴らしさについて声を張り上げるようにして述べたいのです。
ではまずそもそもなぜ私が「与えてみよう」と行動を起こすにいたったのか。
それまでの他者に与える事についての姿勢が一変してしまった体験について、今や常日頃から「与えたい」と願い行動するようにまで変化してしまったきっかけについて述べておきたいと思います。


・与えらえた恵みを覚えて
 私に変化をもたらした経験。それは信仰生活における全てが益となって・・・と言いたい所ですが、さすがにお伝え出来る事にも限界があるので主な二つの出来事についてとりあげたいと思います。

・・福音についての再認識
 詳細は省きますが、ある経験を通して私に与えらた福音について、その素晴らしさについて再発見・再認識させられる体験をしました、
理解しているようでしていなかった、「福音とは何なのか?」について改めて学び直しそこにある恵みの深さについて触れた時、「私は何という大きな恵みをいただいていたんだろう。」と強く胸打たれました。そしてその「あまりに素晴らしい恵み」を家族に伝えたいという衝動に突き動かされ、色々あった結果祖母が信仰を告白するに至りました。※後日、当時残した手記を公開したいと考えています。
既に私は福音という、全ての祝福を束ねても足りないほどに大きな恵みを受けているのだと、そう心に深く刻みつける出来事でした。

・・砕かれる中で
 また私はこれまでの大きな困難と病や試練を通して、これまで当たり前だと思っていた全てが、実はどれ程特別であるのかという事に目が開かれる体験をして来てました。それは今日も続いています。同時にそれは、どんなに小さいと思えることでさえも、私に対するあまりにも豊かな神の愛の現れに他ならない。その事を強く実感するいう体験でもあります。
家の隅を移動する極小のクモ。その身体の極めて美しく精巧なつくり。
美しい夕日に染まる茜空や夜空の煌めく星々と流れ星。
絶えることなく、不足することなく日々供給される水、空気、インフラの存在。
何一つ欠けの無い衣食、そして住まい。全ての人々との出会いと関係。
自分の肉体、その作りとしくみの非常な精巧さ。
動ける、話せる、聞ける。なんの痛みもなく、こんなに素晴らしいことが、当たり前にできるなんて・・・。
挙げたらきりがありません。
これまでの人生の全て、私は常に神からの恵みによって取り囲まれ生かされて来たという事、つまりあまりも大きすぎる、数えきれないその恵みは常に私に与えら続けれていた・・・。
その事にはっきりと目が開かれた瞬間を一体何と表現したらよいのでしょうか。
強く胸打たれ、圧倒され、ひれ伏す。言葉ではなくただ涙が溢れ流れ、ただただ天を仰ぐ他ない。
このような神から与えられる恵みを強く覚える体験を重ねるにつれて、「私はもう既にあまりにも豊かにされている。」という揺るがない満ち足りた思いが心にしっかりと据えられていきました。


 福音から始まり、私を取り囲む神からの恵み、恵み、恵み。
素晴らしいご配慮に囲まれて生かされている喜びを味わう中でふと私は「では一体私は神に何をお返しできるだろうか。」と考ました。
「父なる神は御子をさえ惜しまずに私に与えられたというのに!イエスは全ての栄光を捨ててまでも、あの十字架を選んでまでも、ご自身を私に与えられたというのに!」という思いの土台に加えて、
「益々キリストの似姿へと変えられたい。神に喜んでいただきたい。人々を愛すように変えられたい。」
「愛する兄弟姉妹へ、いつも良くしてくださる皆さんへ、神が与えてくださった我が家族へ。何かお返ししたい。いっぱい良い事してあげたい!」「みんな大好き!」
沢山の思いがどんどん大きく膨らんでいきました。
そして「よし!こんなにも自分は豊かに与えられているんだ。だったら今度は自分が与える側になる時だ。ただその人為に祈るだけでなく、行動しよう。私も惜しまずに、投げ与えるようにして、”まき散らす”ようにして与えよう!イエス様のように!あぁ~あれもこれもしてあげたくて仕方がないわ!」その時何故か覚えていた(思いおこさせてくだるのは聖霊に他ならない)「箴言11:24」のあの御言葉が私を突き動かしました。そしてついに私は「富むとか豊かになるとか潤されるとか書いてあるし、決して悪い結果にはならないだろう!そんなことよりどんどんあれこれしてあげたい。信頼して飛び込んでみよ~。」くらいに軽い気持ちであれこれ初めてみました。


・与える喜び
 小さな事から手当たり次第、思いつく限り、しかし出来る限りの範囲で。そしてここぞという時には一歩二歩踏み込んで。
与えるという事は、相手の反応に関わらず嬉しいし、楽しい。確かに犠牲少なくありませんでしたし、全てがお手軽ではありませんでした。しかしそれさえも嬉しかったのです。神を喜ばせるという事、御旨を行う喜びがそれらに勝りました。
 参考までにすぐに思い浮かぶ事柄を挙げると、主に誕生日、記念日を捉えて贈り物や必要な物を差し上げる。各種献金。日曜の昼食用に何品かを調理し持参する。機会を捉え兄弟姉妹をもてなす。(旅行や食事)あと身内、職場の人にも手紙や贈り物等でしょうか。

 またそういった与える事の素晴らしさといえば、神が私の好みや経験をも用いてくださる事を体験することですね。
少し述べますと、例えば私の食べる事や甘いもの好き、お茶に関心がある事は特に役に立っています。自分で料理やお菓子を作る事は様々な場面でもちろん役立ちますし、贈り物選びには事欠きません。
お父さんによくビールや日本酒(私は全く飲みませんのではじめは知識ゼロでしたが、お父さんが色々教えてくれました。)なんかを贈っていたのは、お酒の知識が職場の上司や同僚の方に感謝の贈り物をするときに役に立ちました。ネットで文章を書き連ねていたのは種々の手紙に、写真(動画も)をやるようになった事も家族や親族との関わり中で大きく役に立ってます。元々専ら俗な目的の為に培ってきた PCやネット関係の知識も、今や皆さんに重宝され家族や教会の間でのお手伝いに役立つものとなっています。
もう色々ありすぎて書ききれません。とにかくワクワクしながら「何がしてあげられるかな」という思いに神が知恵を与えてくださるとしか言いようがないです。ただ神が私の全てを用いてくださると言うほかありません。

 与える時の喜び。あの狂ったように喜び躍る心。
「んもう!大好き!いっぱい大好きっ!ほらほらもう沢山あげちゃうからね~!」
お前は馬鹿だと言われる程に狂気したようにいっぱいあげちゃうおじさんと化した自分。
 台所に立ち、日曜の昼食を準備する時。「あぁ、いっぱい食べて欲しいな。おなか一杯になって欲しい。お口に合えばいいな。この料理の故にただ神様だけがほめたたえらえますように・・・」
ネットで贈り物を選んでいる時。「喜んでもらえるといいな。少し高くなるけどもう1ランク上のモノのほうがいいな。」
与える事が嬉しくて仕方ない。楽しくて仕方ない。たとえ犠牲を払ったとしてもかえられない。それは愚かな事だと言われようとも。


・報いについて
 前述しましたが、自分が富むだとか豊かにされるだとか潤されると書いてあるので、私は始めから神とその御言葉を信頼していました。その為に、楽しみながら大いにばら撒き与える事ができたのです。その行いへの報いについては深く考えずに始めたのですが、散々与え散らした後になってこの御言葉を改めて振り返ってみました。正直に言えばその御言葉を物質的な面での側面からしか捉えていませんでした。
この箇所は「与えた金額分ないしそれ以上の金額分のリターンが自分に対して必ずある、という物質的な利益の保証」ではないと思います。(その意味もあるのかもしれません。しかし私は断言できません。与え施すことの本質は犠牲です。そこには痛みを伴う損失も免れないというが事実だと思います。しかし同時に、犠牲に対する神からの報いは確かに、しかるべき機会に与えられるでしょう。犠牲という十字架の先に栄光という祝福があるように。)
私は介護職なので簿給ですし、極端な臨時収入などは一切ありません。しかし間違いなく様々な場面で補われ守られているのは実感としてあり、一時赤字に転落した財布の状況も元に戻りつつあります。そもそも私は自分が金持ちになりたい願望など無く、ワンランク上の生活など興味がない程に今あるものに感謝できる心を与えられています。もし何かで富む事があるなら、それはより今以上に人々に与える為なのだと受け止めます。


・神ご自身によってのみ
 さてこれまで「与えれた恵みを喜ぶ事」「与える中での喜び」「報いについての考え」について述べてきましたが、
今回の文章において最も強くお伝えしたい事をこれから述べます。

 そうやってあれこれし続けている中である問いが浮かびました。
――台所に立ち包丁を握る手をふと止めて。
――メッセージを書き記すペンを握る手を止めて。

「私が人々に、愛する人々に与える時、こんなにも嬉しく感じるなら神様が私に与えてくださる時には、一体どのように感じてそれを与えてくださっているのだろう?」
しかしそれと同時にその問いの答えもまたすぐに浮かびました。
「今自分が与える事の中で感じているこの嬉しさと喜びそのものなんだ、そして神様の思いの一粒を、小さな小さな一粒を私は頂いているんだ。」
胸が熱くなり涙が溢れて止まりませんでした。
私はこの時「神ご自身によって」私が富み、豊かにされ、潤されている事を知ったのです。

私はこの事実の素晴らしさのあまり、今も賛美と共に涙しています。魂が喜びの叫びをあげています。この言葉にできない、語り尽せぬ素晴らしさをどうか兄弟姉妹の皆さんご自身で知り、大いに味わっていただきたいのです。

お伝えしたい事をなるべく簡潔にして述べてきたつもりなのですが、実際はこれらの出来事の前後、私のこれまでの信仰生活、捧げてきた祈り、ひいては人生の一場面として捉えるとこれらの体験の素晴らしさは、更に美しく輝きを増すのです。神のなさる事の素晴らしさを讃えずにいられません。あぁ全てをお分かち合いするには、文面だけでは到底足りないという事が非常に残念でなりません。
「神様、あなたご自身をもっと知りたいのです!その愛の深みを味わいたいのです!」
「神様、どうか、私の魂の奥深い所の渇き、呻く程のこの渇きをどうか顧みてください。」
これまで捧げたこういった祈りに対し神は、これらの素晴らしい体験を通してご自身を私の内に見事に現わしてくださったのです。
神ご自身こそが私が受ける分であると。

・おわりに
今回の文章は神の素晴らしさを讃え証するものでありながら同時に、兄弟姉妹の皆さんへの強い勧めの意を込めて書き記しました。
どうか皆さんも御言葉を信頼して「与える事」を初めてください。必ず素晴らしい出来事がまっているでしょう。
神が何を喜ばれる事なのか、神ご自身に尋ね求めることを続けてください。必ず知恵が与えられ、成し遂げる力も与えれます。
これはあまりにも小さな事だから・・・と言って大切な機会を見過ごさないでください。今日、その時にしか行えない事が沢山あります。
むしろそのごく小さな事に、神からいただく大きな愛をめいいっぱい注ぎ込んで真心から行うことを求めてみてください。
御言葉を信頼して深みに漕ぎ出そうとする人々の上に祝福が豊かにありますように。
神ご自身との深い交わりの恵みが豊かにありますように。


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