自分の不幸もある種蜜の味かもしれない
前回、「目の前の現実を味わいきれていない」と書いた。
それで、ふと思った。
しあわせよりふしあわせの方が味が濃そう。
勝手なイメージだけれど、天然素材でとった出汁がしあわせの味だとするのなら、ふしあわせはきっと濃くて刺激的な味と香りに満ち満ちているはずで、健康に悪いけどやめられないイメージ。(あくまでも想像)
そう考えると、途端に納得がいく。
わたしはふしあわせの味に慣れすぎている、かもしれない。
毎日いろいろなトラブルが起きてバタバタ対応すること=充実、と勘違いしているかもしれないし、平穏と波乱万丈だったら後者を選ぶかもしれない。
それはヤンキーに憧れる女の子にも似ている。
いろいろありすぎて「普通」とか「しあわせ」の定義からバグってしまっているかもしれない。
お育ちがよくないと天然素材の出汁が舌に合わないのと同じように。
そんなことを思ったりする。
自分ではわからないけれど、それはたぶん合っている。
ご両親に愛されて育ったひとが誰かを大事にしようとするときの行動はわたしのそれとは違うだろうな。
想像にも限界はある。
わたしは、それをなんとなくわかっている。
だから、わたしは愛されて育ったひとが大好きで、そういうひとが側にいると吸い寄せられてしまう。
離婚した元夫は、わたしと同じくらいふしあわせだったから、しあわせになっていくわたしと一緒にいられなくなった。
ふしあわせにふたりでどっぷりと浸かっているのも甘やかだったりする。
理解はしているのだ。
けれど、無意識で見えている世界の歪みは自覚しようもない。
わたしは目の前にいるそのひとを誤解して捉えてしまっているかもしれない。
誰でもそうだけれど、自分だけのフィルターを通して世界を見ている。
そして、その内の何割かのひとは、ふしあわせな世界をあまりにも見慣れていて、新しいしあわせな世界が目の前に拓けていたとしても、違和感を感じて元の世界に逆戻りしてしまうかもしれない。
2年前に見えていたわたしの世界は過酷だった。
今思えば、だ。
それでも、そのときのわたしにはそれが普通だった。
当時のわたしは透明人間のように、いろいろなひとにいることに気づいてもらえなかったり、ぶつかられたりした。
ひとりだけ、わたしを見えるひとがいた。
そのひとの周りのひとにだけ、わたしが見えるようだった。
そのひとに、冗談で言ったことがある。
「えー、もっと優しくしてよ」と何気なく口にした台詞に、彼は少し悲しそうに「もう、優しくしているよ」と返してきた。
不意を衝かれたわたしは「え、もっとだよ」と咄嗟に冗談ぽく返してしまった。
今更胸が痛い。
今なら違う言葉を返せるのに。
あのときは、ありがとう。
いつか言えるといいな。
続きます。