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神様の話はなぜ怖い?

受洗してから、早いものでなんともう31年半の歳月が流れました。

「クリスチャンなんです。」と告げると、いろいろな人が実に様々な反応をします。

「あ、そうなんだー」と言いつつ少し距離を置こうとする人、
逆に「クリスチャンなら洗礼名とかあるの?」(洗礼名があるのはカトリックなので、プロテスタント信者にはありません(笑))「神父さんと牧師さんってどう違うの?」などと好奇心をもって質問する人、
中には「自分は無神論者だから宗教は興味ないんだよね。」と言って、最初から分厚い防御壁を作る人もいます。

(もちろん今この文章を読んでくださっているのが私の知り合いであれば、私が信仰者であるということを知りつつお付き合いくださっている方なので、もしかしたら私が神様の話をするのを少し嫌だなと思いつつも、でもまああいつがそんなに言うならちょっと聞いてやろうかな。くらいの耳は少なくとも持ってくださっているのだと思っています。)

そのどの反応も、以前の、神様を受け入れていなかった頃の、私自身の姿と重なります。

大学卒業後、社会人になり、人生における最大の挫折を味わうことになる前の学生時代の私は、
「明日は誰と何して遊ぼう。」「次はどこに旅行に行こう。」
「なにかおもしろい映画やコンサートやってないかな。」ということばかりで頭がいっぱいで、とにかくひたすら楽しく遊ぶこと、刺激的な毎日を送ることに精を出していました。

(心配しないでくださいね!もちろん今も神様のことは意識の中で第一に置きつつ、コンサートにも美術館にも、友達とのおいしいランチにも旅行にもいっぱい行っています。クリスチャンになったからと言って、何も修道院に入ったわけではないので、ちゃんと人並みに遊んでいます。(笑))

もちろん、卒業後の進路や自分の適性について考えたり、人間関係の挫折などは普通並みにあり、それなりに真剣に思い悩んではいましたが、
「人はどこから生まれてどこへ行くのか。」
「何のために生きているのか。」「人生とは何か。」
「自分に与えられた使命は何なのか。」
などの人生における根本課題は、毎日のレポート提出やサークル活動、就職活動などいくらでもやるべき目の前の課題があるため、常に先送りし、むしろそんな重いテーマは今はまだ考えたくないとばかり、心に蓋をして、見ないようにして、毎日を送っていました。

先に信仰を持っていた姉がプレゼントしてくれた聖書が、下宿の本棚の片隅に置かれてはいましたが、上記のような理由で一切開かれることなく、何年も埃をかぶったまま、放ってありました。

当時は携帯もSNSも何もなく、固定電話代も高かったので、ことあるごとに姉からその時々に、当時の自分にとって必要な聖書の箇所が書かれた手紙が送られてきて、神様の御言葉は人間の言葉と違って力があるので、それらの聖句が私の心を刺し貫いたり、揺さぶったり、慰めてくれたりしたことも、本当は何度も何度もあったのですが、だからといって遊びに忙しい貴重な日曜日を削ってまで教会に行って、なんだか重そうな話(教会関係者の方が読んでらしたらごめんなさい!もちろんそれは当時の私の認識です。今は私にとって不可欠な、大切な生きる糧です!)をわざわざ聞きに行く気には、とてもなれませんでした。

どうしてそんな風に、人には「神様の話」を煙たがって避けようとする心理が働くのでしょう?

「苦しい時の神頼み」とはよく言ったもので、人は人生が順風満帆で何もかもうまくいっている時、周りに信頼できる友達や愛する家族がいて、仕事も経済も順調、やりたいこともたくさんあって毎日が充実している、そんな時には神様のことなんて必要としない、どころかめんどくさいと思ってしまうものなのかもしれません。

「宗教なんて、弱い人間が求めるものだ。」という人もいます。
(実際は私たちクリスチャンは「キリスト教」という「宗教」を信じているわけではなく、「神様=イエス・キリスト」というたった一人の方を信じているというのが、正しい言い方なのですが。)

その通りなのです。
人間は「弱い」からこそ「神様」が必要なんです。

でも「弱い人間」である私たちは、いったん自分が「弱い」ということを自覚してしまうと、「神様」の助けなしには生きられなくなることを、神様なんて信じていないという人も含めてみんな心のどこか=無意識のレベルでは自覚しているので、そのことを自覚しなくて済むように、次から次へと様々な手段を講じます。

仕事や趣味に没頭したり、スケジュール帖を予定で一杯にして暇な時間を作らないようにしたり…

20代の時の私のように、あまりにも大きな人生の試練にぶつかり、それらの手段を講じることすら難しくなってしまった時に初めて、人は根本的な課題に真正面から取り組まなくてはならないのかもしれません。

「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」詩編119:71

だけど神様は、そんな風に神様から逃げ続けていた間も私のことをいつもご覧になっていて、その上で私の方から神様の元に帰って来るまで、忍耐強く待っていてくださったのです。

「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」
マタイの福音書10:30

遊ぶこと、楽しく毎日を過ごすことで頭がいっぱいだった、若き日の私にとって、この御言葉はまさに恐怖でしかありませんでした。

ひえー!か、髪の毛の数までご存知だなんて!こ、怖い…💦

「あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です。」詩篇139:13

ええー?神様は私が生まれる前から私をご存じで、私の細胞の一つ一つも神様が組み立てたって言うの?
じゃあ、私が過去にやった数々の過ち、あのこともこのことも神様は全部ご存知だっていううこと?
それどころか私が今考えていること、心の隅々のずるい思いや汚い気持ち、私が直視しないように逃げている、人を嫌悪したり蔑んだりするような気持ちも、神様には全部ばれてるってこと???
ひえー!や、やばい…。恐ろしすぎる!!!

そりゃそうです💦
この世界を作り、宇宙を作り、星の一つ一つを作られた創造者が存在するのだとしたら、こんなちっぽけな自分が何をどうあがいたって、かなうはずがありません。
何をどうジタバタしたところで無駄な抵抗です。完全にお手上げです。

それでも私は本当に生きるエネルギーを失って「もう死んでしまいたい。」と思うほどのレベルに身を落とすまで、その無駄な抵抗を必死で続けていました。

その後実際に教会に通うようになり、聖書の本当に言わんとしていることを勉強した後で、神様は私が考えていたように、ただただ人間を厳しく精査し、罰をくだそうとしているような、おっかないだけの方ではなく、罪深い人間を再び救い出し、断ち切られてしまったご自分との絆を再び結ぶチャンスを与えるために、たった一人の御子イエス様をこの世界に送り出し、十字架につけてまで救い出そうとするほどの、とんでもない、愛なるお方・「無償の愛」そのものだと知ることになったわけですが…

「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」ヨハネの手紙第一4:8

そして今は心配しています💦

みんながみんな、私のようにこの世に生があるうちに神様のご計画されている救いに間に合うのだろうか、
あの聖書に出てくる豚のえさを食べるしかなくなるまで落ちぶれた放蕩息子が最後に助けを求めたように、いつかは本当に帰るべき場所に帰り着き、神様の元に迎えていただけるのだろうか、
この世での命を失う「その時」までに神様との「絆」を取り戻せるのだろうか…

神様はすべての人の心の扉を、いつもいつもノックし続けています。
ただし、無理矢理扉をこじ開けて、扉の向こうにいる人を引っ張り込むような方ではありません。
それを開くかどうかは、その人それぞれの選択なのです。

私には、私の大事な人たちが、生きているうちに神様の招き入れる扉の向こうに入ってくれるのかどうか、確信がありません。

だから…本当に、めちゃくちゃ心配なのです💦

私だけが天国に行けるから安心、じゃなくて、大事な皆さんと一緒に、「約束された場所」に行きたいのです。
(私にはわからなくても、神様は誰が自分の元に帰ってくる人なのか、既にご存知ですが…)

昔、友人に「キリスト教だけが正しいと主張するのは傲慢じゃないの?仏教やイスラム教やヒンズー教などなど、この世界には宗教がいくらでもあるのに、他の宗教も一通り見てから、やっぱりキリスト教だったと言うなら話は分かるけど。」
と言われたことがあります。

確かにその意見にも一理あり、一瞬そう言われてたじろぎましたが、それこそ私が信じているのは「キリスト教」という「宗教」ではなくて、「イエス・キリスト」というただ一人のお方、イエス様、その人なのです。
私にしたら、教会という「人の集まり」や「建物」を見るんじゃなくて、ユダヤの人々が「イエスを十字架につけろ!」と口々に叫んだ時にピラトが「この人を見よ。」と言ったように、(結局そのあとピラトは群衆の歓心を買うためにイエス様を好きに取り扱ってよいという許可を出してしまいますが💦)ただただ「イエス様」、その人を見てほしいのです。
イエス様の言われた言葉を、見て、聞いてほしいのです。

私はそのようにして20代の時に、(旧約聖書は当時の私には難解な上、あまりにも分厚すぎて大半は読み残したままでしたが)、イエス・キリストの口にされた言葉は2000年以上たった今も生きていて、人間の心を一撃で刺し貫くほどの力があること、この方は誰が何と言おうとただの人ではない、神が存在するとすれば間違いなくこの方こそそうだ!と確信するに至ったのでした。

そしてその確信は30年以上たった今も、一度も揺らいだことはありません。

私はその時友人に、こんな風に答えました。
「たとえば、結婚しようと思える相手に出会ったときに、本当にこの人が運命の相手かどうかわからないからといって、あの人ともこの人とも試しに付き合ってみて、やっぱりこの人が本命だったと、確かめてから結婚する人はいないでしょう?
この人が運命の人だ!っていうのはほとんどひらめきというか、本能、直感に近いものだよね?私はもう既にこの人こそ運命の方だ!と思えるイエス様に出会ってしまったから、他を試してみよう、とはならないのよ。」
(今思うと比喩がちょっと世俗的ですが💦)

本当はもし生きている間に時間が無限にあるならば、「宗教学」としてイスラム教やヒンズー教の人にイエス様のことを伝えるために、それらの経典を一つ一つ読んだり、話を聞いたりして勉強すれば、なお説得力が増すのかもしれませんが💦

話がそれてしまいましたが、もし神様の話をされた時に「嫌だな」と感じるのだとすれば、それは人間がみな等しく「原罪」を持っていて、20代の時までの私のように、それを神様に見抜かれることを、根本的に「恐ろしい。逃げたい。そんなこと認めたくない!」と思う性質を持っているからだと思うのです。

「罪」の話を抜きにして、耳触りのいい、もっと優しい言葉ばかりを並べれば、もしかしたらもっと日本にキリスト教は浸透していくのかもしれません。
ですが、そういう訳にはいかないのです💦
神様との絆を取り戻すためには、どうしても神様との間に分け隔てられた「罪」という断崖絶壁を渡らなければならないのです。

そしてそれを橋渡ししてくれる唯一の手段が、イエス様を信じ、罪を告白して許されることなのです。

「罪」を抱えていることによる根源的な不安を、根本から払拭して楽になるためには、ワンちゃんがお腹を見せて仰向けになるみたいに「逃げも隠れも致しません!ぜーんぶもう見せてしまいますから私を助けてください!あなたの御許に引き上げてください!」と、完全に神様に白旗を上げて降参するしかありません。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます。」Ⅰヨハネ1:9

少し前に、数十年間別人になりすまし、警察の捜査から逃げ続けて、不治の病の末期に道端で倒れ、病院に運ばれる時に自分が実は指名手配されているかつての凶悪犯だと自白して亡くなった人がいましたね。
罪を抱えながら明るい場所から身を隠して何十年も逃げ続けていた不安・恐怖はどれほど大きかったことでしょう。いつ捕まるか、いつ周囲に身元がばれるかと、きっと毎日神経をとがらせ、苦しい思いをしていたことでしょう。
別にそのままそんなことを打ち明けずに死んでいくこともできたのに、彼は亡くなる前に告白せずにはいられなかった…💦

それはきっと、死ぬ前に苦しい重荷を少しでも降ろしたかったからなのではないでしょうか。
もし、生きている間に彼に会えたなら、どんなに大きな罪でも、告白し信じることで一瞬にして真っ白にしてくださる方がいらっしゃるのだということを、彼に伝えたかった…

神様に白旗を上げて降参することは、決して怖いことではありません。

心の奥底から魂のレベルまで、完全に自分をご存知の方に自分を明け渡すのですから、むしろ本当は一番自由で、楽になれることなのです。
しかもその方は、自らの命を罪深い人間のために捧げてまで、私たちを救いたいと願うほどの「愛なる神様」なのですから…

20代の時に早々と白旗を上げてしまい、その後ずっと最も安心・安全な御翼の中で守っていただいている私が言うのですから、これは本当のことです。

以前、まだ母が元気だったころ、母が洗礼を受けるよりもっとずっと前のことですが、「どうして教会に行くと牧師さんは『罪・罪』って繰り返し言うの?『罪・罪』と言われるのが気が重いから、教会行きたくないのよ。」と私に言ったことがありました。

神様は完全に一点の染みもない100%義なる方なので、天の御国に迎え入れられるのは、100%罪が許された、一点の染みもない人だけなのです。
この地上で生を受けた人で、そんな完全に真っ白な人がイエス様以外にどこに存在するでしょうか?

「なんとなく、いい人。」では全然足りないのです💦
「ほぼ、いい人。」でもダメなのです。
「すごーく、いい人」でも、残念ながらそのままでは天国には行けないのです。
100%罪のない、完全に正しい人。
そんな人がこの世のどこに存在するでしょうか?

「義人はいない、一人もいない。」ローマ人への手紙2:25

ただ一人、罪を許す権威を持っている方、イエス様に罪を告白して許していただき、一点の染みもない自分にしていただくこと(信仰を持ってからでもやっぱり罪は犯し続けてしまいますが、それでも毎回その度に許しを請い、許していただき続けるのです!)、それしか方法はないのです。

「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6

何年かご無沙汰している間に、最近、同年代の友人を、また一人喪ってしまいました💧

大切な人を見送る度、いつも「しまった!一番大事な話をしないまま見送ってしまった!」と深い後悔に襲われます。

そういうつらい別れをする度、「もう時間がない」という強い気持ちにさいなまれます。
私自身は、完全に命も寿命も神様に預けているので、たとえ明日召されたとしても悔いはありませんが、大事な存在に神様のことをちゃんと伝えないまま、先に逝かれてしまうのは、本当に何より苦しく、つらいことです。

最近は大事な友人に会う時には、ギデオンのミニ聖書を持参して、相手が嫌でもなんでも押し付けて、受け取ってもらっています。(エンディングノートに、私の告別式では受付で聖書を配ってほしいとは書き残してありますが、生きている間に伝えられるなら、もちろんその方がずっといいので!)
かつての私みたいに、たとえ本棚で数年埃をかぶっていたとしても、いつか神様と出会うタイミングが来た時に、もしかしたら思い出して読んでくれるかもしれないと期待して…

そんなわけで、このNOTEにもこれからも信仰告白は書き綴っていきますし、私と会った時には聖書を無理矢理手渡されるかもしれませんが、私の生きている間に残す遺言だと思って、嫌がらずに受け取ってくださったらうれしいです。

私とのつながりがない方で、このNOTEを読んでくださり、イエス様のことをもっと知りたいと思う方がいらっしゃったら、どうかお住まいの近くの、キリスト教会をお訪ねください。

今日はなんだか感傷的になっていて、いつも以上にものすごい長文になってしまいました💦
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。