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エンディング・ノート

9月は私にとって、受洗記念日(なんと信仰歴30年!)、誕生日、結婚記念日と、記念日がたくさん続く、節目の月です。

ターミナルケアの草分け的存在であり、クリスチャンでもある精神科医の柏木哲夫先生の講演を数年前に拝聴した折、先生は「誕生日は自分の“死”を思う日にしましょう。」とおっしゃっていました。

長年、臨床の場で多くの方々の死に向き合っていらっしゃった先生は、「”良く死を迎えること”は”良く生きること”」だと、自身の著作でも繰り返し言われています。

また、一人の人の死の迎え方ほど、その人がどんな風に生きてきたのか、何を大切にして生きてきたのか、その生きざまをまざまざと映し出すものはないのだとも…。

どんなふうに自分の人生の終止符を迎えるのかということが、私自身の宿題にもなっていたのですが、「自分の死を考えること」というのは、そうは言ってもなかなかそう簡単にはいかない、難しいテーマですよね。

でも、今回の誕生日を前に、長い間先延ばしにしていた「エンディング・ノート」の骨格をやっと形にすることができました。

「エンディング・ノート」のうち、告別式についての具体的な遺言(葬儀会場や好きな聖書箇所、当日歌ってほしい愛唱賛美等々)についての書面は、以前に書いて教会にも預かっていただき、自宅にも封筒に入れて準備してあったのですが、肝心の、告別式に来てくださった方々へのメッセージをなかなか書くことができず、先へ先へと伸ばしている間に、ずいぶん長い時間が過ぎてしまっていました。

とはいえ、まだもしこの先も神様がまだ私にこの地上での時間を残していてくださるのなら、今書いた思いとはまた違う、新しい思いを伝えたくなってくるでしょうし、年を重ねるごとに私の価値観も少しずつ変化していくでしょう。

いつまで生きられるかは誰にも分からない。

ただ、一つだけはっきりしていることがあります。
今地上に生きている誰もが、「いつかはみなこの地上での生を終える日が来る。」ということです。

だとしたら、私たちにできることは、もし明日の朝、目が覚めずに命を終えたとしても後悔しないように今を生きるということだけではないでしょうか。

大切な人に大切なメッセージを伝えることをためらっていてはいけない。
先に天にいかれた方々が、そのことを私たちに伝えてくれています。

「誠実に真剣に生きることとは、いつか必ず訪れる死から目をそらさずに生きること。」
そんな気がしてなりません。

来年、再来年と毎年一年一年、誕生日は自分の「死」を思い、「エンディング・ノート」を読み直し、推敲していく日にしよう。

そんな風に考えながら、また一つ無事に年を重ねることができたことを、神様に感謝して過ごした今年の誕生日でした。

この聖書箇所は、まだ見ぬ天国の情景を思い浮かべることができるような、私の大好きな、ダビデ王から主への美しい賛歌です。
エンディング・ノートにもこの箇所を引用しました。

詩編23:1~4

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

詩篇23編をそのまま歌詞にしたレーナ・マリアさんの素晴らしい賛美です↙