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ゆっくりでもいいんだよ。

教室に入れない子や学校に来るのが難しい子どもたちと日々接していると、つくづく私は本来こっち側の子たちに近い存在だなあと実感します。

もちろんどの子たちにも個性があり、タイプはそれぞれ違いますが、どの子たちにも共通しているのは、みんな一様に大きな不安を抱え、自信を失い、不安が不安を呼び、その不安で自分をがんじがらめにしてしまい、身動きが取れなくなってしまっているという点です。

不安が大きくなると、野生の動物が大自然の荒野の中で自分を襲ってくるどんなに小さな物音や気配にも異常に敏感になるように、人は周囲の人の、どんなささやかな言葉や表情、しぐさにも過度に敏感になります。

我が家の愛犬がまさにこのタイプ。
怖がりの彼女は、夜あたりが暗くなって来ると、超警戒モードに変わり、風が葉をかすかに揺らしただけでも、車のヘッドライトが道の向こうから照らしただけでも、遠くで電車の音がしただけでも、すべて自分を襲ってくる敵だと感知して吠え立て、敵が去った後は怖くなってキュンキュン鳴いています。
本当はもっと早い時間に家の中に入れてあげられたらいいのですが(笑)

絶えず自分を攻撃してくるかもしれない存在に目を配り、ものすごく感度の高いアンテナを自分の周囲に張りめぐらせ、常に全身全霊で緊張状態で戦闘モードで身構えているのですから、それは本当にもう、非常に大きな疲労感を伴う、しんどい状態です。

そんな恐ろしい場所に出ていくことを続けていると、心も体もへとへとになって疲れ果ててしまうため、誰にも会わず、緊張もしなくていい安全な家の中、部屋の中に閉じこもっていたいという気持ちになるのはしごく当然のことです。

私の仕事は、そういう子どもたちに、まずは超緊張状態でいざるを得ない学校の中に、安心安全なシェルターを提供し、心身の緊張を少しでも解いて過ごせる場所を提供すること。
その中で少しずつ自信を取り戻し、まずは少人数の中で再び対話できるように練習し、やがて力を取り戻したら、そっと背中を押し、本来の場所に送り出していくという役目です。

束の間シェルターから外に出ざるを得ないときの、緊張と警戒心に満ちた小さな子犬のようなビクビクした彼らの表情を見ていると、まるで小さかった時の、子どもの頃の自分の姿を見ているような気がします。

3人兄弟の末っ子だった私は、前にも書きましたが、おそらく不注意優勢型のADHD傾向のある、ぼんやりとした子どもだったのだと思います。
(最近はそういう特性があることよりも、社会適応ができているかどうかが診断基準の分かれ目だそうなので、曲がりなりにも子育てを無事終え、一応仕事もしている私のようなタイプは、もし病院に行っても診断はもらえないと思いますが。)

多動や衝動性のない、ぼんやりしたタイプの、いわゆるおっとりした夢見る夢子ちゃんタイプの私のような子どもは、一人で放っておいても静かに本を読んだり絵を描いていたりして手がかからないので、ADHD傾向があると気づかれることも少ないようです。

何をするにもマイペースで、急かされること、自分のペースを乱されることが何より苦手で、時間感覚も他の人とずれているので、周囲の大人から「どうするの?やるのやらないの?」と選択肢を突きつけられ、性急に期限を区切られると、それだけで自信を失い、本当に自分がしたかったこともしたくなかったこともわからなくなってしまい、「どっちでもいい」と言ってしまったりします。

自信を失っている子どもが、再び自分を取り戻し、自分で自分の選択をしていけるようになること、大人の支配から脱して自立していけるようになるために大人ができることは、まずは安心・安全な環境を保障し、どれだけ時間がかかっても、「これが自分の選んだ答えだ!」と自信をもって言えるようになるまで、ただひたすら「待つ」ということだけです。

本来子どもは、自ら成長していける無限の可能性を与えられた存在です。

とはいえ、支援の仕事をしている私たち大人も、流れのはやい常に成果を求められる性急な世の中で生活しているので、ともすると周囲からのプレッシャーに負けそうになり、子どもたちを守り切れるだろうかと自信を失いそうになる瞬間があります。

教育の現場で心理支援の仕事を目指すということは、そんな世の中の流れに逆行して、立ち止まっている子どもたちを「今は立ち止まっていてもいいよ。歩くのが遅くても大丈夫だよ。」と安心させつつ、翼の影にかくまうことだと思っています。
自分自身が周囲からのプレッシャーにビクビクしていた若い頃にはとてもできなかったことです。

どうしてこんなおばさんになってから心理支援の勉強をしたくなったのかなと自分でも不思議に思い、
「神様、気づかせてくださるのが遅いじゃないですか。もっと早くに、若い頃に自分の適性に気付きたかったです。」
などと訴えていましたが、最近になってやっと、そうではない、逆だと気づきました。

おばさんになったからこそ、やっとそういう、昔の私のような弱った存在を抱えられるだけの、周囲に負けない耐性と覚悟が身についてきた今だからこそ、自分にできることが見えてきたのだと。

人にはそれぞれ、その人に最も合ったタイミングが神様から用意されているのですね。
世の中の基準からしたら遅すぎるとしても、私にとっては、今がきっとベストタイミングなんです。

今なら、何事も行動が遅くて要領の悪かった、自信がなかった少女時代の私に、こんな風に声をかけてあげられそうです。

「あなたはそのままの、ゆっくりペースでいいんだよ。」
「急がなくていいんだよ。神様はそのままで十分だとおっしゃってるよ。」
「多分あと50年くらいしたら、きっとみんなのペースに追いつけるからね。」と。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。
詩編55:23

恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。
ダニエル書 10:19