年功序列から相対的な年功尊重へ

近年、年功序列制度の崩壊が糾弾されており、年功序列を嫌悪する若者が増加しているように思える。一方、年功序列がだめなら成果主義かというような議論が繰り広げられているが、意味的に年功序列の対義が成果主義ではないため、本質をついてない内容が多い。例えば、歳を取ってる窓際社員が出るのはよくないだから成果主義にしようというのには、飛躍がある。歳を取った窓際社員がいるのには、成果に基づかず、年齢が上がれば給与が増加するのが原因と考えられているが、厳密には、成果を年齢という指標で測っているのが問題なのであり、成果主義にしたからといって成果の測定方法を策定しなければ解決しない。

このように、年功序列と成果主義という間違った二項対立のせいで、短絡的に成果主義にすればいいという主張が通り、成果の測定方法については議論されない。

では、年功序列の反対はなんだろうか。そもそもここでいう年功序列とは、年齢で序列を決めましょうという意味で使っているが、厳密に、年功序列の年功とは年齢だけでなく、今まで積み上げた実績も含まれる。しかし、その積み上げた実績は、絶対的な基準で一律に測れるのに変わらない。本来は、実績は相対的に測られるべきで、一つの尺度で一律に順序づけられるわけではないのだ。

そこで、相対的な年功尊重という私が考案した概念を年功序列の対義語として提示したい。

相対的な年功尊重とは、今まで生きていた年数の中で積み上げた多様な経験値を相対的に評価しようというものだ。例えば、営業で社会人10年経験した33歳の人と、コンサルで社会人5年経験した28歳では、年功序列では、33歳の人の方が序列が高くなる。一方、相対的な年功尊重では、営業の観点からみれば33歳の人の方が上、コンサルの観点から見れば28歳の人の方が上なのである。

では、相対的年功尊重のなにが良いか。それは、お互いに学び合う姿勢を維持できるという点だ。絶対的な年功序列では、年齢の上のものが下のものから学ぶ姿勢を失ってしまう上、傲慢になり、年齢を重ねた結果あたかも自分が貢献して成長したと錯覚させる。これこそが、老害であったり窓際社員をのうのうとやれる本質的な原因なのである。相対的年功尊重では、人を経験年数という上で多角的に尊重し、自分には足りていない要素をお互いに吸収しようという意識が高まる。この意識が、老害や窓際社員を消して会社の風通しを良くするだろう。

しかし、この相対的な年功尊重を実現するには、高齢の方を説得するだけでなく、教育機関でおこわれきた体育会系という最も理不尽極まりない年功序列をどうにかしなければならない。もっとも、この体育会系という兵隊のような教育が良しとされている意識を改善せなばならない。


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