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勇気一つに嫌われて

 風呂からあがると上の娘、カナエが妻と下の娘、サナエに歌を披露していた。

「じょうず、すごいすごい」

 妻の拍手に合わせてサナエもおぼつかない拍手を姉に贈る。
 カナエが私に気づくと、パパがきたからもう1回ね。とまたテレビを背に歌い出した。彼女が歌っていたのは、私や妻の世代でも当時は歌わされた曲だ。哀愁のあるメロディーに懐かしさと、まだ音楽の教科書に載っていることへの驚きもあった。しかし曲名が思い出せない。


「今ちょうど授業で歌ってるんだって」

 先に上がらせたサナエの髪を拭きながら、横目で私にそう説明した妻は、それと同時にカナエの歌に耳を傾け、身体を揺らすことを忘れない。母親とは逞しいなと感服する。
 カナエが一番を歌い終えようとしたとき、答え合わせをされたように歌詞は締め括られた。

 ゆうきひとつをともにして

 てっきり「イカロス」や「イカロスの翼」みたいな感じだろうと思っていた私は少し恥ずかしくなり、肩にかけていたバスタオルで無駄にもう一度髪をかき混ぜたが、三人とも私を見てもいなかった。

「ね、パパ? カナが小さかった頃に前に絵本読んだことあるもんね」

 部屋着を取りに寝室に行っていた私が戻ってくるなり、妻は同意を求めてきた。

「なんの? イカロス?」
「そー」
「そうだっけ?」
「読んでたよ。しかもパパが」

 記憶を辿るも思い出せない。

「カナはそんなにお気に入りじゃなかったから、たぶん1、2回だけだと思うけどね」

 妻が私を庇うようにそう言ってから、着けていた膝を浮かせ、私に二人を任せてリビングから出て行った。
 サナエにパジャマを着せて、一人で夕飯の配膳をし始めているカナエを手伝っているうちに、妻が絵本を手にして戻ってきた。

「ほら、これこれ。カナちゃん覚えてる?」

 妻がカナエに見せた表紙を覗くと、確かにうっすらと見覚えがあるような気がした。思いのほか画風が水彩画調で、イカロスも無表情に近い顔をしていたので、それは子供も好まないだろうなと悟った。
 しかし、子供の記憶力というのは優れたもので、嘘か本当かカナエは首を縦に振った。

「サナもー」

 絵本を見たがっているサナエに表紙を向けると怖がるかと思ったが、彼女は表紙のイカロスと同じように無表情になった。

「読んであげたら?」
「よんでー」

 妻の提案に便乗するようにサナエは私に絵本を突き出してきた。承諾するとサナエは大袈裟に喜んだが、イカロスにつられてたのかまだ変に無表情が残っている気がした。
 カナも一緒にみる? と妻が尋ねると、いい。と断言してせっせと箸をそれぞれの席の前に並べていた。最近は何でもお姉さんらしいことがしたいカナエは、自分が少しでも子供じみていると感じるものは拒否していていたので、私たちからすれば、やっぱり。といった反応だった。

 夕食後、ソファに腰掛ける私の膝の上にサナエを乗せて、イカロスを読み聞かせた。私もこの話を覚えていなかったので、新鮮な気持ちで読み終えたがその内容には多少呆気に取られた。
 カナエから聴いた歌の歌詞との辻褄が合わないことに驚いたのだ。話のおおよその道筋の相違はないものの、根幹となる教訓が違っていた。曲では「勇気一つを友にして」と銘打つように、勇猛果敢に空を飛ぼうと挑む勇気と、太陽を目指す向上心を持つイカロスを讃えるようなものだった。
 しかし、絵本の中の彼が太陽に近づく行為は、調子に乗って父親の言付けを破った愚行とされていて、報いのように海へ落ちていくという、子供たちへの戒めが目的のような話だった。

「……どうだった?」

 本を閉じて表紙に戻しサナエに感想を訊くと、私を覗き込むように首を持ち上げた。

「かわいそう」
「死んじゃったから? でもお父さんの言うことを聞かなかったからだよ」

 するとサナエは視線を落としてまたイカロスの無表情な顔を見つめてから、頭を左右に振った。もしかしたら歌と絵本の教訓が混同しているのかもしれない。私もこんな話だと知らなかったとはいえ、ややこしいことをしてしまい少し申し訳ない気持ちになった。

 毎朝の通勤は何年繰り返しても慣れるものではない。今日も吊革すら掴まれず、両手でカバンを抱きかかえる滑稽な姿のまま他人の体温を背中で感じている。
 車両の中の半数は私と同じようなスーツ姿で、私と同じ。とスーツの男たちを一括りに捉えるのと同様に、私以外の人たちも私を一群のほんの一部にしか捉えていないことに、いつも意味なく居た堪れなくなる。
 そんな中だから、セーラー服がひときわ目を引くのは必然的なことである。クラスの中に放り込まれてさえしまえば、その少女は私と同様に大きなものの一部でしかなくなるのだろうが、この車両の中では特異な存在なのかもしれない。だからだろうか、荒地に咲く一輪の花のように妙に凛々しく見えた。
 あと十年もしないうちに、カナエはアレを着て毎朝こんな目に遭うのか。そう愛娘に置き換えて考えると気分の良いものではない。たとえそのときカナエがどれだけ反抗期を拗らせていたとしても女性専用車両にだけは乗ってくれと懇願しようと、不本意に目立つ少女を眺めながら私は決意した。
 そのとき少女と目が合った。セーラー服から視線を上げると、怪訝さを一瞬覗かせた目でこちらを一瞥したのだ。だから勘違いを生まないためにも、もうそちらを見ないよう私は努めた。
 しかしそう思ったが最後、見ようが見まいが少女を意識してしまっていることに変わりはないのだから、何となく息苦しさがある。
 停車しドアが開くと少女は降りていく、そこでやっと私は視界の制限を解かれた気分に安堵した。そのとき先ほどまで少女がいたあたりに何か落ちているのを偶然見かけた。
 その他のスーツを掻き分けてそれを拾うとやはりカードケースだった。私は弾けるように電車から飛び出し少女を呼び止めた。

「これ、そうですよね」

 女子高生に話しかけていること。周囲から見られていること。気持ち悪い親父に思われるのでは。私を残して扉が閉まるのでは。様々な焦りのせいで多くを話せなかったが、差し出したそれを見た彼女は察したようだ。

「あ、すみません」

 まだその声にも表情にも怪訝さがあった。善意を受けているにも関わらず、どこまでも私を変質者の枠から排除し切らない彼女に腹が立ったが、背後の今にも閉じそうな扉がどうしても気になったので私は踵を返してすぐに元いた車両に乗り込んだ。
 取り越し苦労だったか、扉は私が乗車してから三十秒ほどは開いたままで、急いだことが恥ずかしくなった。しかしそんなことを気にしても仕方がない。先ほどまでのセーラー服はもうそこには無くなっていたのだから。

「いいことしましたね」

 電車が動き出すとほぼ同時に、すぐ横のスーツ姿の青年が話しかけてきた。どうやら一部始終を見ていたようで、私に温かい眼差しを向けてくれている。

「すいません。俺も気づいてたのに」

 青年は萎縮して言った。褒められようとしてやった訳ではないし、彼が謝ることでもない。私が俯かせていた首を持ち上げて、謙遜を表そうと手を顔の前で振ろうとしたときだった。
「偉いよあんたは」
 青年の援護射撃のように、背の低い初老の女性が割って入ってきた。彼女は、ねえ? と同年代の連れの女性に同意を求める。

「そうそう、若いのにね」

 私はもう四十手前と、若者と言える程でもないし、そもそも親切に年齢は関係ない。それでも褒められて嫌なはずがなかった。
「いや全然です。たまたま見かけたってだけで」
 それでもしばらく止まなかった称賛の声に私は気恥ずかしさを憶えながらも、もちろん率直に嬉しかった。
 その日は気分がいいまま仕事を終え帰宅した私は、つい自慢話のように今日あったことを家族に話した。少し大人気なかったかと内省したが、三人ともが拍手を贈ってくれた。

「パパえらいねー」

 サナエは手を高く差し出すので、私は膝をついて俯いた。そうするとサナエは私の頭を撫でくれた。

 鮨詰めにされ諦念の表情で中吊り広告を眺めていた朝、視界の端にいつかのセーラー服が入った。妙な緊張感を抱きながら観察していると、やはり以前にカードケースを落とした少女だった。しかし、その日はどこか前と印象が違って見えた。
 社会や大人や、様々な大きなものには私は屈しない。とでも提言するような凛とした出立ちだった少女が、そのときは顔を赤く染めて震えているようだ。
 体調が優れないのだろうか、私は何故か少しの背徳感を抱きながらも、スーツの群れを静かに掻き分けながら少女に近づいた。
 そこでようやく分かった。少女は怯えていたのだ。身体をできるだけ硬直させて、嵐がすぎていくのを待つように、痴漢に耐えていたのだ。
 スカートを弄るパーカーにジーンズの男は私と同じくらいの歳だろうか、鼻の穴を膨らませながらも涼しげな表情を保っている。
 思考を巡らせるよりも先に私の身体は動いていた。捲られたスカートから覗く白く滑らかな太腿も、怒りで興奮している今の私には何の意味もない。
 いやらしく蠢く男の手を掴もうとしたときだった。

「きめぇコトしてんなよ、おっさん」

 気づけば先ほどまで彼女の尻の上で踊っていた指は、しっかりと私の手首を掴み上げていた。男は私の手を素早く躱し、私がするはずだったことをしていたのだ。
 車内はザワつき、少女と男そして私の3人を残して奇妙な丸い隙間を作った。
 弁解することも激昂することも忘れて、この男は近くでみると意外と若かったんだな。と的外れなことを考えているうちに電車は停車し、私は車外に放り出された。そのまま二人の駅員に挟まれる。彼らは何やら私を責めるように質問をしてきているが、私の耳には何も入ってこない。私は少女と、まだそれに擦り寄っている痴漢男を眺めていた。
 男は少女の背中をさすりながらまた別の駅員に、いかにも善人ぶって事情を説明している。そして少女は両手で顔を覆っていた。

「あの人は前々から、この子を狙ってたみたいなんですよ」

 途切れ途切れに聞こえてくる駅員との会話の中で男がそう言ったのを拾った。そのとき私はやっと思い出したのだ。いいことしましたね。私にそう声をかけてきた青年が、目の前の痴漢男だった。
 悪事を働くときは人相が変わるというのは本当なのだな。私はまた的外れな感想が浮かんだ。
 深海へ引きずり込まれていくような感覚の中、私はどこで間違えたのか、どこで勇気に嫌われたのかをずっと考えていた。


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