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イオンの“家族連れ”を見ると切なくなる理由

イオンに行くと、なんだか切なくなる。子どもの頃はまったく感じていなかった、家族という枠組みへの窮屈感。わたしがその枠を意識し始めたのは、留学先で体験した「家族」の暮らしだった。


家族の団らんを邪魔してはならない

留学先で4件のホームステイをし、様々な「家族」の暮らしを体験した。

1件目のステイ先は、両親に男の子3人というファミリー。子供たちが0才〜小学生の育ち盛りで、母親は専業主婦、父親は会社員だった。

一家で仲が良く、人によってイメージは違うと思うけど、“ザ・理想の家族”という感じだった。その「暖かい雰囲気」ゆえ、私は家族の団らんを邪魔しては悪いと思い、夕食を共にした後は、長居せず自室に戻っていた。

私はこの家族のことが好きだった。親切だったし、何度か留学生を受け入れていたので、子どもたちも異文化への尊敬があり、話しかけられると嬉しかった。でも、いまいち打ち解けられなかった。

他国からの留学生は団らんに積極参加!

留学生用の部屋がふたつあったので、夏には短期滞在の生徒が入れ替わりきて、数週間単位で暮らしを共にした。ポーランド、スペイン、イタリアからきた彼女たちは皆、自分の家かのようにリビングでくつろぎ、家族のやりとりにも入っていく。

彼女たちの振る舞いに驚くとともに、自分は家族という枠組みをとても意識していたことに気付いた体験だった。

団らんするのは家族じゃなくてもいいはずなのに、内と外を隔てるボーダーを私は意識していた。結果、私はいつもステイ先で「他所者」のポジションを自ら選んでいたのだ。

イオンになじめない

いまでも、イオンのような施設で家族が一緒に行動しているのを見ると、なんとなく元気がなくなる。その様子に憧れているのではなく、また、自分にはそれがないから落ち込んでいるのでもない。

なんだろう、この感じは…。

否定したいわけでもなく、ただ、なんだか「違う世界」がそこに広がっているように感じる。そこから自分が隔てられていることで守られるような安心感がある一方、そこに介入できない危うさや脆さみたいなものを感じて、なんともいえない切なさのようなものがやってくる。

「お邪魔します」と家にあがる文化

考えたら、日本にはよその家にあがるときは「お邪魔します」と挨拶する習慣がある。これって、自分は他所者・邪魔者という事が前提の言葉じゃない?

「内輪ノリ」みたいなものがあると安心感があって、自分の居場所のように感じさせてくれる。だけど、私は内輪だけに留まるのは嫌なのだ。内輪の楽しさ・暖かさに留まっていると、知らないうちに視野が狭くなる。そして、自分が輪の外側にいる人間の時は、内輪感とは人を寄せ付けない気がして引いてしまう。

…と、ここまで書いて、私は人様の家では「他所者として振る舞う事」が行儀のいいことだと捉えていたんだなと、ようやく気が付いた。

「私の暮らす家」というテーマ

この文章を書いたきっかけは、私たちれんげ舎の主宰している「じぶん綴り方」というサークルで、「私の暮らす家」というテーマが出たから。

はじめは今まで暮らしたことのある家を思い浮かべた。実家、祖母の家、留学先の家、引っ越し前の家、今の家、どこにも我慢はあったし、どこにもくつろげるスペースもあった。

振り返ったことで、この先はどんな家に暮らしたいのかなと考えてみている。

快適さも大事だけれど、理想の暮らしを中心に考えだすとつまらないような気もする。だって、どこに住んでいても暮らしはついてくるから。憧れの間取りや地域があったとしても、そこに住むことで理想の暮らしができるわけでもない。

留学生活で私は、「どこにいても自分は自分なのだ」ということを思い知った。そんな理由から、家や地域への期待や憧れを持たなくなった。暮らしをよくしていくということは、どこか違う場所・環境に移れば叶うということではなく、きっとその時の自分の感じに気付き、試行錯誤することで叶うのだと思った。


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