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私が行きたい場所。そして、帰りたい場所

れんげ舎で主宰している「じぶん綴り方」というnoteサークルでは、毎月異なるテーマで文章を書き合っている。5月のテーマの1つは「私が今、行きたい場所」。海外旅行も解禁になり、梅雨前の快適な気候のこの時期、行きたい場所をあれこれ考えながら、自分はなぜそこに「行きたい」と思うのかを、探ってみた。

本当は求めていないことに気付いた

行きたいところ、たくさんあるなぁ…
海外にも行きたいし、国内でも行きたいところがたくさんある。

すごく身近なところでいうと、つい最近、家の近所に図書館を見つけたときに、行きたいと思った。

今の家に引っ越してきてから、2ヶ月ちょっと。あまり近所のことを知らなかったので、散策に出かけたときに、見つけたのだ。

駅を通り越したところに大きな公園があり、ここいいな〜と思っていたら、隣に、その図書館はあった。

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散歩中に見つけた大きな公園

「今度、予定のない休日にゆっくり行ってみよう!」

見つけた時は嬉しくて、ふと、そう思ったのだが、実際はきっとそんなに行くことはないだろう。

そもそも予定のない日が少ないし、予定がない日は片付いていない様々なことに手をつけるだろうし、「図書館に行く」という選択肢の優先順位は低い。なにより、私の場合は本もたいして読まないし…。

なぜ、そこまで求めてもいない休日の過ごし方に、憧れを抱いてしまったのか…。それには思い当たることがある。

「いつも通り」という守り

図書館にいたっては、たぶん、ジブリの「耳をすませば」の影響だなと、思った。図書館の帰り道、もしかしたら素敵なことが起こるかもしれない…とまでは思っていないけれど、なんとなく「図書館で過ごしている時間」に素敵なイメージが、自分にはあるようだ。

旅行にしてもだけど、やはり行きたい場所には何かしらの憧れや期待がある。でも、「行きたい!」と思って日程を決めて、交通手段を手配して、すごく楽しみにしていたのに、行く前日に急に面倒になることがある。

知らない場所での移動や食事のことだったり、一緒に行くメンバーのことだったり、急に現実的な視点が襲ってきて、あーなんか近場でいつもの感じでよかったなーと思えてくる。

もちろん、行き先によって程度はあるが、やはり普段は行かない場所だったり、久しぶりの人とだったり、距離が遠い時のほうが、この緊張はやってくる。

「いつも通り」のルーティンを抜け出したかったはずなのに、急に「いつも通り」という、ぬるま湯の気持ちよさに気づいてしまうのだ。

期待と現実の落差を乗り越えた先に

それでも、たいていの場合は「やっぱり行かない」という選択はしないし、振り返ってみれば、行って後悔したということはあまりない。

期待通りではなかったり、充実した感じが得られなかったとしても、基本的には行ってよかったと思う。

やはり行ってみないと、本当のところはわからないからだ。

土地の空気感や、そこに暮らす人々の感じ、遠い場所じゃなくたって、例えば近所の図書館だって、やはり訪れてみないとわからないものはある。

「行ってどうする?」「行ったら何ができる?」などと、考えすぎたり、調べすぎたりしてしまうと、直感よりも考えたことを優先して躊躇してしまう。

事前に情報がとれるって、本当に便利なことだけど、人間の持つ感じる力や、その場での瞬発力みたいなものは、失われているんだろうな…

まだ知らない場所への「行きたい」と、すでに知っている場所への「行きたい」は、思いの根っこがちょっと違う気がする。

知らない場所への行きたいは世界を広げるために、知っている場所への行きたいは自分を取り戻すため・自分に帰るために、私にとってはそんな違いがあるように思う。

これから先、行きたいと思える場所がもっと増えるといいなと思う。
それは、それだけ「自分が自分に出会った」という実感が得られたということでもあると思うからだ。

知らない場所で飲むのは楽しみのひとつ!知ってる場所で落ち着いて飲むのも、もちろん好き。笑



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