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「つもった雪」、見えないものへの思い

この人の口癖は「仕事は行や。」という言葉だった。患者の母親に「子ども育てんのも行やで。」ともよく言うのだった。私に泊まって行けと言うてくれるのも、恐らく行で言うてくれているのだった。この人の日常性の藪の中から出て来た言葉なのだろう。そこに、私はこの人の味わい深い面白みを感じていた。だから私にとってはこの人のフッサールやメルロ=ポンティはどうでもいいことだった。原田さんの中に言葉が発生するところは、そんなところにないからだ。ところがこの人はフッサールやメルロ=ポンティを後生大事に拝んで生きている。私には分からないことだった。私は普段の原田さんのおかしみのある言葉に接して、数ヶ月ぶりに外界の空気を吸うたような解放感を味わった。原田さんの言葉のやさしさは、セイ子ねえさんやアヤちゃんなどの息詰まるようなやさしさとは、やはり異質だった。

車谷長吉「赤目四十八瀧心中未遂」

ずっと前に、この一節を引用したことがある。
当時、この「原田さん」という人がとても生々しく感じられた。原田さんがどうしようもない思いを抱えて、学問にすがっているのだと思っていた。他人事とは思えなかったのだ。
しかし、今になってこの一節を思い出したのは、少し違う気づきに手を引かれてきたからだった。

原田さんにとっての学問とは、風穴だったのではないだろうか。日常生活には現れることのない「異質」なもの。彼が「後生大事に拝んで生きている」学問は、もしかしたら「原田さんの言葉のやさしさ」の源泉なのかもしれない。

注意したいのだが、学問がやさしさをもたらす、と言いたいわけではない。
もしかしたらだけど、原田さん自身にとっても学問は「異質」であり続けたし、だからこそ学問に取り組み続けることは「行」だったのだ。異質なものに触れ続けようとすること、その姿勢が結果として「やさしさ」という形をとって現れているのかしれない。

* * *
さて、いまここで文章を書こうとする以上、「要するに」と言いくるめるのは良い選択ではないだろう。それは異質なものに対して開かれる態度――ではないと思うからだ。ふだんの会話でもできる限り使わないようにしている言葉でもある。「要するに」「結局、」「でも」「なので、」…。

その代わりに、と言ってはなんだが、前回からなんとなく頭の片隅に残り続けていることを話題にしたい。「詩」だ。
わたしにとって詩は、異質なものでありつづけた。前回は、中井久夫氏の文章を引用していた。もういちど引用しよう。

私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。

中井久夫「私と現代ギリシャ文学」

徴候とは「物事の起こる前触れ。きざし。しるし。気配」という意味で使われている。医療の場面では、「主観的な症状(symptom)とは対照的に、病気の客観的な証拠の表れである症状」とされている。中井氏が医師だったことを思えば、この定義も念頭に置いていただろう。

だとすると、次のように言い換えることもできるだろう。散文とは、そこに書かれていることが本体であり、詩とは、そこに書かれていないものが本体だと。対比的に言い換えてみたけれど、うまくいっているだろうか。

それなら、詩こそ風穴、開け放たれた窓なのかもしれない。そこから入り込んでくる「風」のイメージは、次のようなものだ。これも以前引用したものだけど、もう一度あげてみよう。

次のページをめくった。次も。私は魅了された。空と海と鷗と白い島と。乾いた夏と湿った冬と。太陽と裸体とセミと星明りの夜ときつく匂う草と。独特の漁船と生乾きの海藻の香りと。そして何よりも風。庭を吹き荒れ、樹を揺るがせ、平原をこうこうと吹く風があった。舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっと駆け出す風のリズムがあった。

中井久夫「ギリシャ詩に狂う」(『記憶の肖像』より)

* * *
こうやって引用を重ねていくのは、私の試みの一つでもある。できるだけ「私は」と始めないこと、「要するに」と言いくるめないこと、そしてこれ。

見ようによっては散漫なままで、書きっぱなしだと思われるかもしれない。だが、円環が閉じるように自分の価値観を固めてしまうのは、私の望むところではない。引用と例示をためらわず、さらには重複さえもためらわなければ、「風穴」は必ず開かれる。そして、世界の多様なバリエーション(変奏曲)を知ることができる。

* * *
ずっと頭のなかを漂っている詩のフレーズがある。紹介されて以来、詩のことについてなにか書こうとすると必ず、このフレーズを思い出している。

上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。

下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。

中の雪
さみしかろな。
空も地面もみえないで。

金子みすゞ「つもった雪」

見えないものに思いを馳せること、それは「考えてもいなかった」ことに注意しようとすることでもある。つねに新しいものを見たいと思う性向は、閉じることを逃れようとして、だから次のような考え方につよく惹きつけられていったのだろう。

目的や目標に向かうための道筋を発見すること、それが方法だ。だから方法は仕組みであって目標に向かうための裂け目をつくることである。主題はいつもどかっと坐っているが、方法は切れたり離れたり、くっついたり重なったり折れ曲ったりする。方法はいつも稲妻のように動いているし、割れ目のように何かのあいだにある。そのような主題と主題のあいだにある方法に注目したい。そう、考えるようになったのだ。

0012夜『テスト氏』ポール・ヴァレリー(松岡正剛の千夜千冊)

見えないものへの思いは、完結することがない。それはときに「裂け目」「風穴」と呼ばれ、「徴候」を知らせ、「詩」や「やさしさ」となり、「方法」を捉えることがある。

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