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信仰が必要な理由

私に信仰が必要な理由を伝えていこうと思います。
宗教と聞くだけで「いやー」という方もみえると思います。
でも少しでも関心があれば読んでみてくださいね。

エピローグ

信仰の話を書こうと決めていた今日(2024年7月30日)
朝に虹が出ていました。
このとき、雨はほぼ降っていませんでした。
夕方には晴天の中小さな虹が見えました。
そして、心の中でこれは、自分へのメッセージ(応援)かな?と
思っていて、だとしたらすぐに消えるなと考えていたら
見ているうちに消えました。
これは、傍観録で書いておこうと思いました。

実は、過去にも不思議な虹を見ました。
こちらは写真があるので掲載します。

この時も雨は全くありませんでした。
お店の経営に行き詰まり、もうどうしようもないと
考えていたときです、死ぬことは考えていませんでしたが
これからどうすればいいのか?途方に暮れていた時です。
そして短時間で消えました。

信仰には奇跡があると思います。
しかしそれは与えられるものですし
信仰の出発点は、極めて私的です。
個人にだけ感じ、その人しか理解出来ない事です。
ですから、そのことを他人が理解出来たり
説明しても理解を得ることは、とても難しいと思います。

信仰を持てば、その人その人の心境に応じて
様々な事が起こります。

そうした奇跡の一面もあることを
今日有った出来事を通じて
エピローグとしてお伝えしようと思いました。

信仰が必要な理由

さて、奇跡は与えられると書きましたが
奇跡が与えられるから、信仰が必要とは思っていません。
奇跡は、信仰における過程だと思います。
先ほどにも書いた通り、極めて私的な事です。
そうした一面もある事をお伝えしたたかっただけです。

ここからは、私が考える人に信仰が必要な理由をお伝えします。

何事も基準が必要です。
考えてみれば、いかなる事も基準があります。
原点と言ってもいいと思います。

心にも基準や原点が必要です。
心に限らずですが、すぐにズレて行ってしまいます。
しかし、心の場合のズレは分かりにくいです。
それは、個々に自我があるからです。
また、個人の選択の自由があります。

また、心の状態は客観視できるものではありません。
可視化は出来ないのです。
言葉とか外見では、心の状態は分かりません。
ただ、偽りがなければ、言葉や外見も
その人の心の状態の一面を表しているのも事実だと思います。

人はともかく、心の状態が変わっていきます。
私はこれを高揚感と呼んでいますが
上下に高揚し、また特定の事に深く高揚します。
執着であり、躁鬱でもありますね。
それは、至って人の心として普通だと思います。

そして客観視出来なくなります。
自分の我見で、物事を正しく見れなくなっても
自分で気づけない怖さがあります。

仏教では、八正道があります。
八正道に基づいて心を点検し
修正していくわけです。

八正道とは、仏教の教えであり
お釈迦様が説かれた方法です。
と言うことは、単純に仏様が示された
正しい心の基準です。

心の基準は、時代時代で変わる物ではないと思いますが
何を心の基準にしているかは、人それぞれです。
言い換えれば、現在その人自身の思考が
基準になっている訳です。

それは、様々な影響を受けて
基準となる物も時間と共に
変わっているでしょう。

私は、その基準、思考を神から発せられた
基準に合わせたいと思っています。

神から発せられた、基準は当たり前ですが
神が考える基準であるからです。

その基準を受け入れ実践するには
神を信じることが出来なければ
出来ない事です。

自分が信じる事が出来ない人に
何かを言われても、受け入れる事がないのと
同じ事です。

ましてや心の基準となると
自分自身の根本の部分に関わることです。

それは自分の存在の根源に極めて近いと感じます。
過去も未来も含めてです。

私たちは、自由であると思っていますが
考えてみれば、この世では空気があり重力があり
その他の生存できる環境にあるからです。

これも生存できる環境の基準がある事になります。

自由であると思っているが、生存できる環境がなければ
それすら出来ない前提がある事に、気づいていない
忘れていることすらあります。

生存できる環境の中で
あなたは何を基準として生きていくか?

自分の考える基準で何を気づき
思考して日々過ごしていくか?

その時何を基準とするべきか?
私はそれを考えずにはいられないのです。



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