フランス語の「無音のH」は“読まないH”のことではない
フランス語の語頭の h(/aʃ/)には「無音のh」(h muet)と「有音のh」(h aspiré)との区別がある。
『新フランス文法事典』の h の項から説明を引用しよう。
フランス語を学んだことがない人にはこれだけだとなんのことだかわからないと思うので、前提知識となる現象について説明する。
エリズィオン、リエゾン、アンシェヌマン
フランス語には、後続する語が母音で始まる時に、先行する語の音や綴りが変わることがあり、現象ごとに次のように分類される:
1. エリズィオン (élision)
定冠詞の le, la や代名詞の je, te、前置詞の de など特定の語に母音で始まる語が続く時、語末の母音字を消し、代わりに « ’ » を打って後続の語とつなげる。
le + ami → l’ami /la.mi/
la + île → l’île /lil/
je te + aime → je t’aime /ʒə.tɛm/
2. リエゾン (liaison)
単独で読むときは発音されない語末の子音字が、後続する母音と繋げる形で発音される。
les /le/ + amis /ami/ → les‿amis /le.za.mi/
grand /ɡrɑ̃/ + artiste /ar.tist/ → grand‿artsite /ɡrɑ̃.tar.tist/
sang /sɑ̃/ + impur /ɛ̃.pyr/ → sang‿impur /sɑ̃.kɛ̃.pyr/
リエゾンには絶対しなくてはならない場合、絶対してはいけない場合、してもしなくてもいい場合とあり、特に学習者を悩ませるポイントである。(そのためか、この中で一番名が知られている印象がある。)
3. アンシェヌマン (enchaînement)
語末の子音が後続の母音と繋げる形で発音される。リエゾンと似ているが、こちらは単独でももともと発音されていた子音(語末の子音字とは限らない)が、次の語の最初の音節に組み込まれる現象である。(他の言語でも起こる現象だが、これをさしてリエゾンと呼ばれることがあるのでややこしい。)
belle /bɛl/ + affaire /a.fɛr/ → belle‿affaire /bɛ.la.fɛr/
quatre /katr/ + îles /il/ → quatre‿îles /ka.tril/
無音のh
さて、フランス語では h が読まれないので、h で始まる語も発音上は母音で始まることになる。従って、上で挙げた3つの現象が同様に起こる。
1. エリズィオン
le + hôtel → l’hôtel /lo.tɛl/
la + heure → l’heure /lœr/
2. リエゾン
mes /me/ + habitudes /a.bi.tyd/ → mes‿habitudes /me.za.bi.tyd/
grand /ɡrɑ̃/ + homme /ɔm/ → grand‿homme /ɡrɑ̃.tɔm/
3. アンシェヌマン
une /yn/ + heure /œr/ → une‿heure /y.nœr/
autre /otr/ +histoire /is.twar/ → autre‿histoire /o.tris.twar/
これらの綴り字上の h は、あたかもないがごとく扱われるので、これを「無音のh」と言う。
有音のh
しかし、一方で、フランス語では h が読まれないにも関わらず、h で始まる語の中には、エリズィオンやリエゾンを妨げるものがある。これらの語頭の h を「有音のh」と言う。
1. エリズィオンしない
le + heurt → le heurt /lə.œr/
la + honte → la honte /la.ɔ̃t/
je te + hais → je te hais /ʒ(ə.)tə.ɛ/
2. リエゾンもしない
les /le/ + héros /e.ro/ → les héros /le.e.ro/
en /ɑ̃/ + hors-d’œuvre /ɔr.dœvr/ → en hors-d’œuvre /ɑ̃.ɔr.dœvr/
まとめと本題
以上が、「無音のh」と「有音のh」の違いになる。繰り返しになるが、フランス語の h は常に無音である。綴り字の上で h という子音字で始まるにも関わらず、母音字で始まる語と同じ振る舞いをする場合、この語頭のhを「無音のh」と呼び、逆に h が読まれないにも関わらず、hで始まる語が他の子音で始まる語と同じように振る舞う場合、この語頭のhを「有音のh」と言う。
が、しばしば、この「無音のh」「有音のh」は誤解されているように見受けられる。
誤解①:発音されない語頭のhを「無音のh」と言う。
フランス語の h は常に発音されない。「無音のh」と「有音のh」を区別するのは語頭だけだが、発音されるかどうかで区別するわけではないのは、上で見た通りである。発音される語頭のhはない。
誤解②:フランス語は語頭の h を発音しない。
フランス語の h は常に発音されない。「無音のh」と「有音のh」を区別するのは語頭だけなので、「無音のh」と呼ばれるのは語頭のhに限られるが、hの字は語中でも発音しない。
cahier /ka.je/
trahir /tra.ir/
dehors /də.ɔr/
誤解の原因
なぜ、こういった誤解が生まれるのか。その最大の原因はもちろん、誤解を招きやすいその名称にあるだろう。「無音のh」と「有音のh」と言われれば、誰だって「発音される h と発音されない h があるんだな」と思ってしまう。
そして、それ自体がおそらくはこうした勘違いを元に作られたものと想像されるが、この誤解をさらに爆発的に日本中に広めたと思われる本がある。『名探偵コナン』である。コミックス版『名探偵コナン』19巻所収の 「フランスにて…」から「無音のh」の言及がある箇所(pp. 64-65)を引用しよう。
何度もしつこくて申し訳ないが、語頭の「h」を読まないことを「無音のh」と呼ぶわけではない。もしかしたら、新名さんはそんなことは知っていたのかもしれない。あるいは作者も知っていたかもしれない。しかし、フランス語について詳しくない人であれば、この流れから、そう誤解したとしても不思議ではないだろう。
語頭のhを発音しないのは何もフランス語特有の話ではなく、ロマンス語全般に見られる現象である。しかし、あえてここでフランス語が選ばれたのも「無音のh」と言う名称が(あるいは勘違いされて)インパクトをもったためだろう。
歴史的な話
これは青山先生が悪いんじゃない。「無音のh」「有音のh」なぞというわかりにくい名称がよくない。そもそも、読まないならなんでhを書く必要があるんだ。
ごもっともである。
ラテン語には H [h] の音があった。H の文字がラテン文字で使われていたのだから、ある意味当たり前の話ではある。しかし古典期(1世紀)にはすでに民衆の口語からこの音は消えつつあり、俗ラテン語の末裔である各ロマンス語にはこの音が引き継がれず、綴りの上からも消えた。
羅 HOMŌ「人が、人は」 > on、羅 HABĒRE「持つ」 > avoir
しかし、いくつかの語は後に語源が意識され綴りの上では h が復元された。
羅 HERBAM「茎、植物を」> erbe > herbe
羅 HOMINEM 「人を」> (h)omme > homme
(実際には h の有無以外にも様々な表記揺れがある)
従って、ギリシア語・ラテン語由来の語は無音のhで始まる語が多い。
一方で、現在の北フランスにあたる北ガッリアの地にフランク族をはじめとしたゲルマン民族が流入したことにより、[h] の音を含む語が大量にフランス語に入ってくることになった。これが「有音のh」の起源である。すでに音声上からは消えていて、後世綴り字としてのみ復活する「無音のh」と異なり、これらの h は実際に発音されていた。その名の通り「有音のh」だったのであるが、これも結局17世紀から18世紀の間には消えてしまい、ただ文法上の振る舞いだけが現代まで引き継がれることになった。その後も h で始まる外来語は、フランス語に入ると読まれなくなってしまうものの、文法上は「有音のh」として受容されることが多い。(日本語由来の haïku, harakiri, hentai, hiragana なども「有音のh」で始まる語である。変な語が多いのも気になるが)
上記の h は無音であれ有音であれ、語源に由来する h だが、これらとは別に、ある種の綴り記号として使われた h がある。
例えば上でみた、cahier (<俗羅 quadernum)や trahir (<羅 TRADERE) の語中の h は caier, trair と綴ると ai が /ɛ/ と読めてしまうために、これを避けるいわばトレマのような働きをしている(実際 quayer, traïr のように綴られたこともあるらしい)。
また、古くは u と v (i と j)の表記上の区別がなかった(区別されるようになったのは16世紀から)ため、例えば uile = vile と書くとこれが /ɥil/ なのか /vil/ なのかわからなかった。そこで、母音始まりであることを語頭に h をつけて示した。
huile < 羅 OLEA (英 oil)
huis < 羅 OSTIUM
huitre < 羅 OSTREA(英 oyster)
huit < 羅 OCTŌ
参考文献
おまけ
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